限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第162回目)『リベラルアーツとしての語学(その3)』

2011-10-16 23:47:26 | 日記
前回から続く。。。

【3.思想表現としての言語について】

この『リベラルアーツとしての語学』連載の初回に、言語に関して次のように述べた。
 言語というのは、もっと幅広く人間の思考を支える基本的な道具であると同時に、それぞれの国民性や思考体系を抽象化したものであると考えている。つまり、人間が論理を使って生活していく上では意見表明や思想を深める上で必須の道具であると同時に、逆に言語という道具によって、考え方が規定されてしまう。言語にはそういった両面性がある。

我々、日本語で自分たちの思想を表現しているが、日本語の文法や語彙によって思考の範囲(horizon)や感じ方自身が限定を受けている。それは、日本語だけの世界からでは分かりにくいが、他の言語と比較すると明瞭となる。ここで他の言語というと真っ先に英語が挙がるが、私は『英語だけ』と比較して日本語の特質を語る世間の風潮には反対である。

まず英語と比較する前に、その比較対象の英語が世界の言語、いや、もう少し範囲を絞って西洋語の中でどのような位置を占めているか、考えてみるべきであろう。つまり英語が西洋語を代表する言語であるかどうか、という確認をする必要がある。

英語は元来ゲルマン語の系統であるが、現在、語彙の大部分はフランス語と共通である。その理由は、 1066年にフランスの北部、ノルマンデー公であったウィリアム一世(ノルマン征服王)がイギリスを征服した、いわゆるノルマン・コンクエストによって俗語のフランス語がイギリスの支配者の言語として持ち込まれた。その結果上流階級がフランス語の方言、庶民が英語という二重言語構造となった。そして、数百年にわたってフランス語の方言が英語に大量輸入されるようになった。一方、中世においてラテン語が教会の言語であったため、公的文書はラテン語で書かれた。それ故、ラテン語の文体や語彙が英語に取り込まれることも多かった。

つまり、中世の英国においては、文章言語としてはラテン語やフランス語が用いられ、英語は単語の綴りですら統一されていなかったことは、OED(Oxford English Dictionary)の語源欄をみればよく分かる。(例:king(王)の綴りは、次のようなバラエティがある:cyning, cynincg, kyning, cining, cyng, cing, cyncg, ching, kyng, kynge, kinge, kin, kynnge, kink, keng)

文章言語としては常に第二級言語であった英語はルネッサンス以降、ようやく英国の文人達の母国語意識の高揚とともに洗練されてくる。まずは単語の精査を行った。それまで先進国のフランス語とばかり思って、崇めて使っていた『ノルマン・フランス語』が実は、フランス本国では片田舎の言葉であったということを知り、恥ずかしくなった。それで、ノルマンディ訛りの綴りを片端から由緒正しいフランス語や、更に遡ってラテン語の綴りに置き換えていった。この作業と同時に、文章法(syntax)もフランス語や古典語(ギリシャ語、ラテン語)の特徴を取り入れてエレガンスで知的な文体を取り込もうと努めた。


【出典】Rijksmuseum

ところが、残念ながら、ノルマン・コンクエスト以降、英語がかつて持っていた色々な特徴が失われてしまった。例えば、名詞の性や複雑な格変化がなくなってしまった。またゲルマン語族として本来備わっていた豊かな造語力も、フランス語の影響で語彙系統がめちゃめちゃになったため、まったく無力化してしまった。この結果として、英語は語彙としては、同じ意味を元来のゲルマン語系とフランス語系およびラテン語の両方で持つ水ぶくれ状態になってしまった。(これは日本語における大和言葉と漢語の二重状態と等しい。)

文法(syntax)にしても、ゲルマン語系の言い方もフランス語系の言い方も、どちらも可能となり、統一がとれなくなってしまった。例えば所有格では my brother's wife も、 the wife of my brother もどちらも正しい言い方である。

私の想像では、ルネサンス期から近代にかけてのイギリスの文人達は、こういった支離滅裂な英語を、均整のとれたラテン語やフランス語と比べるたびに、この英語をどのように改良したらよいか、途方に暮れたに違いない。『賽の河原』のような徒労感にとらわれながらも、それでも一歩一歩、語彙、文法(syntax、grammar)改善を積み重ね、ようやく英語が現在のような一人前の言語と成った。

しかし、その間に施された『整形手術』によって近代の英語は、元の英語(古英語)とは全く似ても似つかないものになった。特に文法(syntax)は、ラテン語の込み入った表現法をまともに取り入れようとしたため、増築に増築を重ねて避難通路が迷路となった古旅館のような、奇形な文体が出来上がった。

例として、英語の辞書を独力で書き上げた文人 Samuel Johnson (1709 - 1784)が辞書の前言として書いた文を見てみよう。
I have, notwithstanding this discouragement, attempted a dictionary of the English language, which, while it was employed in the cultivation of every species of literature, has itself been hitherto neglected; suffered to spread, under the direction of chance, into wild exuberance; resigned to the tyranny of time and fashion; and exposed to the corruptions of ignorance, and caprices of innovation.
(私訳:私は、このような意気消沈にもめげずに、英語の辞書を作ろうと取り掛かった。それ(英語)は  -- 文学のあらゆる分野の開拓のために用いられていたにも拘わらず  --  従来全く軽視され、広範囲に用られず、方向性もなく出鱈目にまかされ、時々の気まぐれな好みに振り回され、無知蒙昧の輩の規則はずれの用法と新規を衒った用法のためにずたずたになっていたのだった。)

このような枝分かれが多く、一文が長い文は18世紀や19世紀の文人には珍しくない。ドイツでは哲学者カントの文が同様の特徴をもつ。

結局これらの文体は、私の見るところ、全て彼ら近代の文人達が手本とした、古代ギリシャ語やラテン語の文章をそっくりそのまま近代語に移し変えただけのことだ。現在ではこのような複雑な文体は分かりにくいとして、 Plain English (易しい英語)を書くべきだという主張が勢力を増している。言語を単なる通信手段として見た場合、この主張は頷けるが、思想を盛り込む器としての言語としては、私はこの考えに同調しない。

肖像画というのは、人のありのままの姿を写すのが本来の描き方のはずだが、画家によっては、体の一部どころか、顔の半面しか描かない画家(レンブラント、『夜警』)もいた。画家が二次元のキャンバスという限定を受けながらも、自己の主張を盛り込むために絵画方法を工夫したように、我々も文章において自分の主張を盛り込むべきために、何をどのように表現するか、文章の彫琢に努力すべきであろう、と私は考える。

続く。。。
コメント
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