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限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【2011年度・英語授業】『日本の情報文化と社会(7)』

2011-06-15 00:09:37 | 日記
【日本の情報文化と社会 7: Travelers' Views (After Meiji)】

明治維新後は、お雇い外国人のように日本政府が積極的に招聘したため、学者の来日が目立つ。その中には日本にぞっこん惚れ込んだラフィカディオ・ハ-ンのような人もいれば、逆に日本の因習的な道徳を批判したウィリアム・グリフィスのような人もいる。

概して言えば、来日した外国人にとっては、当時の日本、および江戸期の日本というのは、日本人が卑下するほど酷いものではなかった。むしろ、ケ-ベル博士のように、近代化されたヨ-ロッパの真似をすることの非を鳴らす人の方が多かった。つまり、近代産業の隆盛を迎え、帝国主義の絶頂期にあったヨ-ロッパはヨ-ロッパ本来の美しい姿を失っていたと彼ら自身が考えていたのだ。その醜い姿をそのまま、日本人が『すごい!かっこいい!』と誤解して猿真似することを甚だ見苦しいと感じていた。

一方、幕末に咸臨丸でアメリカを見た江戸幕府の関係者が政治の表舞台から退場したため、再度、欧米の実地視察が仕切りなおしとなった。明治4年から約二年にもわたって、100名近い大使節団が欧米の実情を事細かく視察したのがいわゆる岩倉使節団であり、その記録文書が『特命全権大使米欧回覧実記』である。これは久米邦武の手になるもので、記述対象は、社会制度、科学技術、軍事など非常に広範囲にわたる。さらに物の値段まで書き込んであるので、当時の各国の生活レベルがよくわかる。この本は、今の我々のように欧米に関する知識がある者にとっても非常に興味深い内容を含む。ましてや当時の人々に与えた影響は甚大なものであったと想像できる。

以下にこれら旅行記の一覧を掲げる。大抵は、岩波文庫、平凡社の『東洋文庫』、講談社学術文庫、に納められている。
 *ラフィカディオ・ハ-ン
 *イサベラ・バ-ド(『日本奥地紀行』『朝鮮紀行』)
 *メ-チニコフ(『回想の明治維新』)
 *エセル・ハワ-ド(『明治日本見聞録』--薩摩藩に雇われた英国婦人)
 *ベルツ(『ベルツの日記』)
 *キャサリン・サンソム(『東京に暮す』)
 *特命全権大使・米欧回覧実記(久米邦武)

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・お雇い外国人
 明治時代の初期、欧米各国から先端技術を学ぶため、イギリスやアメリカを中心に明治政府は数多くの外国人を雇った。その数は合計で約30 00人に達した。中には、政府の高官以上の給与が支払われた外国人もいた。給与の合計は、年間の国家予算の1/3にも達した。



・3人のイギリス人とアメリカ人
お雇い外国人のなか、イギリス人では、ア-ネスト・サトウ、ラフィカディオ・ハーン(小泉八雲)、イザベラ・バードがいる。アメリカ人にはウィリアム・グリフィスがいる。

・アーネスト・サトウ(1843-1929)「一外交官が見た明治維新」
 アーネスト・サトウは、20歳前に来日し、日本語に熟達した。またア-ネスト・サトウの名前は、佐藤という発音に似ているため、日本人には覚えやすかった。そのため彼は日本政府の中枢人物と直接に話す事ができたので、極秘の情報をも知ることができた。以下は、アーネスト・サトウの「一外交官が見た明治維新」からの抜粋。

○大名達の実際の権力は全くの見かけ倒しだ。彼らの教育レベルも概して低い。このような有様でもなんとか体裁が保てたのは鎖国のおかげだと言えよう。開国後は、この化けの皮がはがされ、ぼろぼろとなった。

○孝明天皇が天然痘によって病死したという噂を聞かされた。数年後このことに詳しい日本人から、帝は毒殺されたと聞いた。帝は、外国への譲歩に対し、強硬に反対した。そのため遠からず壊滅する幕府に替わって交渉の表舞台に立つであろう天皇家の邪魔になるので殺されたと言うのだ。

 ・ウィリアム・グリフィス(1843-1928)「ミカドの帝国」
 以下は、ウィリアム・グリフィスの「ミカドの帝国」からの抜粋。

○道端に、死体が埋葬されずに何日も転がっていた。
==> 彼がここで言っている死体は多分「」あるいは「」のことであろうとかんがえられる。、

○ものの本には、日本はアジアの楽園などと書かれているが、実際に日本に滞在すると、そうではないことを悟るものだ。
==> 彼の言っていることは正しく、当時の日本の生活水準は低く、楽園とは言い難かった。

○夏の暑い時期になると、日本人は男女共に、半裸で過ごしている。女性はトップレスになることに対して、全く恥じらを感じていないようすだった。
==> 当時の日本では、公共の場所で、肌を見せることは別段恥ずかしいことではなかった。これは、日本の高温多湿な気候による風習であり、南方系の習慣のように考えられよう。

○個人のモラルを高め、社会を健全化し、政治的風土を革新させるためには日本にキリスト教が必要だと私は信じている。とりわけ、日本人がないがしろにしている貞操の重要性を知らしめるにはキリスト教しかない。

○崇高なる名誉心は侍だけが持っている。職人や農民は、精神的には羊のように臆病だ。商人には知恵のかけらも見出せない。この点において中国商人より遥かに劣る。ところが、女性の扱いに関しては日本人の男は他のアジアの諸国の男に比べて優しい。
==> 明治維新後、政府の高官や役人には武士階級の出身者が多かった。一方、職人や農民は権力に対しては従順そのものであった。この意味で彼の指摘は的を得ている。しかし、早くも明治20年代になると大学生に占める武士階級の割合はかなり減少していた。つまり職人や農民の子弟も続々と自己の存在を主張し始めるようになったのだ。

・ラフィカディオ・ハーン(小泉八雲)(1850-1904)
 以下は、ラフカディオ・ハ-ンの「知られざる日本の面影」からの抜粋。

○長年日本人の生活を観察した結果から公平に言って、日本人がキリスト教に改宗しても得るものがないどころか、失うことばかりだ。
==> ラフィカディオ・ハーンは、伝統的な日本文化を愛していた。それで日本人がキリスト教に改宗することは逆に日本がダメになることだと考えた。

○日本の工芸、例えば生花、を見たあとに西洋流のものを見ると、何とも西洋流が不恰好で下品だと感じてしまう。
==> 彼は、日本の伝統工芸は美しい感じていた。しかし残念ながら明治期から日本の伝統工芸の技術的衰退が始まっていた。それは、個々の職人芸の低下ではなく手間をかけずに金儲けを追求するようになったためだ。

○極貧で取るに足らないような日本人でも不当な行為に対して屈服することは滅多にない。彼らが一見従順に見えるのはその持ち前の道徳心によるが、それをいいことに侮っていると痛い目にあう。彼らを軽くあしらったがために、何人がそれで命を落としたことか。

・イザベラ・バード(1831-1904)
 イギリスに生まれ、1878年に来日し、日光、新潟、山形、秋田、北海道などを単身で旅した。離日してから、中国と朝鮮をも旅をした。、「日本奥地紀行」、「朝鮮奥地紀行」、「中国奥地紀行」などを書き残している。

○ヨーロッパですら、女性が一人旅をすると、嫌がらせや侮辱的な目にあう。しかし日本では1200マイル(2000Km弱)旅行してもそういう目には一切遭わなかった。

○昨日、留め紐を道の途中でなくしてしまった。同行の者が日が沈み暗くなったにも拘わらず1里も引き返して見つけ出してくれた。彼は、旅行の最後の日まで全ての持ち物にたいして自分には安全に保管する責任があると言った。

・ラファエル・フォン・ケーベル(1848 - 1923)
 ドイツ系ロシア人。日本に始めて本格的な西洋哲学を導入した。ピアニストとしてもプロ級の腕前をもっていた。

○日本人は自分の責務に対して実に忠実だ。
○西洋文明は日本文化の良い点を全て台無しにしてしまう。
○日本精神に足りない点といえば『批判精神』だ。

・エルヴィン・フォン・ベルツ(1849 - 1913)
 ドイツ人の医者。東京大学で医学を教える。天皇家の侍医となる。日本人妻との間に息子あり。

○イギリス大使館の館員が言っていたが、もし日本が日露戦争に勝ったなら傲慢となり、プロシャのような軍国主義国家になってしまうであろう、と。

○アメリカ大使館の軍事顧問が言っていたが、日本の産業が発展すると遠からずアメリカと摩擦を起こすであろう、と。
==> 当時、すでに欧米の大使館員達は日本の将来を正しく予測していた。残念ながら、これら二つの予測は何れも当たってしまった。

・赤松則良(1841 - 1920)
幕臣。幕末にオランダに留学。帰国後海軍や造船業に貢献する。

・岩倉使節団(1871 - 1873)と久米邦武(1839 - 1931)
           (。。。略。。。)
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