★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Irritability?

2019-12-18 23:10:39 | 文学


博士のうち続き女児産ませたる。方違へに行きたるに、あるじせぬ所。まいて節分などは、いとすさまじ。 人の国よりおこせたる文の、物なき。京のをもさこそ思ふらめ。されどそれは、ゆかしきことどもをも、書き集め、世にあることなどをも聞けば、いとよし。

「すさまじきもの」には実にいろいろあり、よくわからんが、清少納言が空虚を感じて、しまいにゃ「いらいらした」ものである。犬だって昼吠えたっていいであろうが、確かに犬の鳴き声の空虚さと昼間の充実した感じとは似合わない感じがするし、網代が春まで残っているのは、網代よ一体何をしてんの、という感じで空しい。牛飼いは牛をなくして空虚であり、産室から赤ん坊が去ったら空虚である。火がない火鉢も同様である。しかし、学者の家に女の子ばかり生まれたのがすさまじいとはよく分からん。跡継ぎがいないというのは確かにそうなのであろうが、牛や赤ん坊、網代や犬と一緒というのは変である。要するに、清少納言は、似たものを連想しているうちについ自分のプライドにかかわる話題に踏み込んでしまったのであった。そうなったら、なんだかいろいろといらいらしたものが連想されてくる。空虚ではない、空腹のいらいらに近い。

方違えに行ったのにごちそうがない(いらいら)→地方からよこした手紙に贈り物がついてないぞ(いらいらいら)→ていうか、京都からの手紙の場合もそうなのであろうが、違うね。あちらが知りたい世の中のことが書いてるあるからさ(いらいらいらいら)誰が田舎に贈り物なんかつけるか

人のもとにわざと清げに書きてやりつる文の返事、いまは持て来ぬらむかし、あやしう遅き、と待つほどに、ありつる文、立文をも結びたるをも、いときたなげにとりなし、ふくだめて、上に引きたりつる墨など消へて、「おはしまさざりけり。」もしは、「御物忌みとて取り入れず。」と言ひて持て帰りたる、いとわびしく、すさまじ。

ちょっと落ち着け。

東浩紀氏なら、「それ誤配だから」というであろうが、誤配以前に仕事が出来ない人という者はいるもので、清少納言のまわりにも魯鈍な人々がいたに違いない。確かに清少納言も思い上がっているとは思うが、きちんとした文化というものは几帳面さがないといけないのだ。くだらない側面だが、だれかがそれを担う必要がある。

一体掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところでないから、知らん顔をしていれば差し支えないようなものの、ここの細君の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと云わざるを得ない。何が無意義であるかと云うと、この細君は単に掃除のために掃除をしているからである。はたきを一通り障子へかけて、箒を一応畳の上へ滑らせる。それで掃除は完成した者と解釈している。掃除の源因及び結果に至っては微塵の責任だに背負っておらん。かるが故に奇麗な所は毎日奇麗だが、ごみのある所、ほこりの積っている所はいつでもごみが溜ってほこりが積っている。告朔の餼羊と云う故事もある事だから、これでもやらんよりはましかも知れない。しかしやっても別段主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが細君のえらいところである。細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって頑として結びつけられているにもかかわらず、掃除の実に至っては、妻君がいまだ生れざる以前のごとく、はたきと箒が発明せられざる昔のごとく、毫も挙っておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとくその内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。

――「吾輩は猫である」


この猫もよくある考え方をしているが、お前の抜け毛を如何せん。