★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

過ぎにし方

2019-12-22 23:23:57 | 文学


過ぎにし方恋しきもの 枯れたる葵。ひひなあそびの調度。二藍、葡萄染めなどのさいでの、おしへされて草子の中などにありける、見つけたる。また、折からあはれなりし人の文、雨など降り、つれづれなる日、探し出でたる。去年の蝙蝠。

単純な事物からドラマに展開するのは、前段と同じである。葡萄染めなどが本のなかからでてくるのは単にそれが過去でないことを示しているわけである。押しつぶされた葡萄染は過去においては、本の間に挟まる程度の物なのに、見つかったときは、過去への扉のようなものに変わっている。そしてそれが本のなかというのも、――まるで本そのものも過去への扉であるかのように思われる。だから、次に人の文が次にでてくるのであろう。「また」なんかが記されているのは、論文やレポートなどだと付け足しみたいな退屈さがあるが、ここのそれはまるで「ああ」とか「さあ」という感じがする。その頃あはれに思った人の文も見つけたの。いまは外は雨が降っていて、わたしはつれづれな日のなかにいる。あ、ついでに去年の夏の扇まででてきました……

それにしても、こういう過去の思い出しかたがわたくしにあるであろうか。清少納言は、悪口の連射は時々すごいのに、このような場合、そういうものが混じらないのであろうか。わたくしだったら大いに混じってしまう。

代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩う強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼はこの嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這い纏わっていた。彼はしばらくして、
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。


――「それから」


漱石でなくても、我々の過去は、本の間とか手紙の中にはなく、部屋に漂う薫りの中にある。それは烟のようにある。そこから逃れることはできず、封印されることもない。今だってそれは変わらない。