★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

伏姫の中に因果あり

2019-12-02 23:37:15 | 文学


確か高田衛氏も指摘されていたと思うが、北村透谷の八犬伝論「処女の純潔を論ず――富山洞伏姫の一例の観察」はなかなか鋭いではないか。

「八犬伝」一篇を縮めて、馬琴の作意に立還らば、彼はこの大著作を二本の角の上に置けり。其一はシバルリイと儒道との混合躰にして、他の一は彼の確信より成れる因果の理法なり。全篇の大骨子を彼の仁義八行の珠数に示したるは、極めて美くしく儒道と仏道とを錯綜せしめたるものなり。その結構より言ふ時は、第一輯は序巻なり、而して第二輯の第一巻は全篇の大発端にして、其実は「八犬伝」一部の脳膸なり、伏姫の中に因果あり、伏姫の中に業報あり、伏姫の中に八犬伝あるなり、伏姫の後の諸巻は、俗を喜ばすべき侠勇談あるのみ。

高田氏は、透谷はキリスト教的な「神聖受胎論」の影響を受けているので、みたいなことを言って相対化されていたと思う。確かにそうかもしれない。しかし、キリスト教をいろいろ勉強したはずの我々でさえ、伏姫の箇所を読んで「伏姫の中に因果あり、伏姫の中に業報あり、伏姫の中に八犬伝あるなり」という――内容ではなく、表現を見出すのは難しい。

透谷の形而上学は、このような修辞的なもののなかに潜んでいる。だから、結局、その目指すものを描写して安心することができなかった。藤村はそれをよく分かってたんじゃないかな……と思った。