高欄のもとに、青き瓶の大きなるを据ゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄の外まで咲きこぼれたる昼つ方、大納言殿、桜の直衣の少しなよらかなるに、濃き紫の固紋の指貫、白き御衣ども、上に濃き綾のいとあざやかなるを出だして参り給へるに、上の、こなたにおはしませば、戸口の前なる細き板敷に居給ひて、ものなど申し給ふ。
青磁の瓶に桜を活けてるんだけれども、桜と言えば、自然のなかで酒盛りだ毛虫だ、みたいな現代人は美を構成する意識がそもそも希薄なのだ。リアリズム思想もそれを後押しした。上の場面なんか、ほとんど人工的な感じである。大納言(中宮の兄貴、伊周)二十一歳、上(一条天皇)十五歳という若々しい設定までまるで創られた絵である。「細き板敷に居給ひ」がよい。この場面全体が、細き板敷きのようなものである。外への広がりはないのだ。中宮を中心とした美的構成があるだけだ。
春は曙、も実はそうなのである。しかし、このようなものを、唯物論者が科学的でないとか言っているのはまだいいにしても、文化の発酵自体を馬鹿にする風潮が長く続きすぎている。上の場面だって、別にいいとは思わないが、ぶっ壊して駐車場にすりゃいいというものでもないんだ。
むかし鴻池家に名代の青磁の皿が一枚あつた。同家ではこれを広い世間にたつた一つしか無い宝物として土蔵にしまひ込んで置いた。そして主人が気が鬱々すると、それを取り出して見た。凡て富豪といふものは、自分の家に転がつてゐる塵つ葉一つでも他家には無いものだと思ふと、それで大抵の病気は癒るものなのだ。
――薄田泣菫「青磁の皿」
泣菫はある富豪が飲み屋で自分のうちにあった青磁の皿と同じものを見出し、小判何枚も出して買い取ったあげくその場でそれをたたき割ったエピソードを紹介している。まあ、そういうこともあるかもしれん。これが華族とかではなく富豪というところに泣菫の言いたいことがあるのであろうが、この富豪も泣菫ももうすこし青磁の皿にやさしくあってもよいのではないか。皿に花を置くぐらいの……
別に泣いたり菫をみたりじゃなくてもいいわけである。