★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

けふはみな乱れてかしこまりなし

2019-12-11 23:13:56 | 文学


また、かたみに打ちて、男をさへぞ打つめる。いかなる心にかあらむ、泣き腹だちつつ、人をのろひ、まがまがしく言ふもあるこそをかしけれ。内裏わたりなどのやむごとなきも、けふはみな乱れてかしこまりなし。

十五日は節句で小豆粥を食べるのである。粥を炊いた棒で女の腰を打つと男が生まれるというので、みんなでたたき合って遊んでいるのである。ちょうどそんな頃に、お姫様に通う婿殿ができはじめて、婿殿が通ってくるときに、さあ姫君の尻を打つわよ、という感じで後ろから狙っていると姫の前にいる女房がしっと手真似で止めるが、お姫様はバカなのか天然なのか気づかない。「この物をとりませう」と言って近づき、姫の腰を打って逃げる。みんな笑う。婿殿も笑う。お姫様は「少し赤みてゐたる」。これがをかし。

で、しまいにゃ、上のように、男の腰を打ったりするのであった。カオスである。しかし、こういう感じのふざけあいにも乗れない人はいるもので、詛ったりまがまがしく悪態をついたりする人もいる。清少納言は、とにかくこの世は全てをかし、のモードに入っているので、こんなものも「をかしけれ」になってしまうのであるが、どうせ、我々の先祖のことである。どさくさに紛れて、陰湿ないじめをやっていたに違いない。紫式部が見ているのは、そういう側面であろう……。

女「あたしもその男に出会った。勝手口のくぐり門の外で一度、表門のわきで二度。紺のダブダブのオーバーのポケットに両手を突込んで、影のように立っていた。なにかまがまがしい影のように突立っていた」

――江戸川乱歩「断崖」


我々の世界においてまがまがしいものは、直ぐさま外部として感知される。そして、自分のまわりに壁をつくる。そうすると、その中にまがまがしい物ができる。更に壁をつくる。――この繰り返しで、我々はついには、電子の海に自分を投げ出す。そうすれば、上のようなカオスに戻ったような気分が復活し、「かしこまりなし」になるのである。