★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

忽焉としてあらずなり

2019-12-08 23:36:28 | 文学



そをきかれずと知りながら、犯して身を殺すは益なし。それ危ふき邦には入らず、乱るる邦には居らず。この故に酒家八名は当初を去りて、他山に移らまくす。

だいたい親が間違って仁であっても、子はその反対に行ってしまうものだし、孫になるともはや馬糞レベルということはよくあることだ。はじめから馬糞レベルの場合は、もはや身は消えて群がる蠅レベルになっているかもしれない。我々のまわりも、大概が祖父よりも使えないやつになっている。この感じで行くと、里見家の没落なんかも、我々よりはかなり高レベルであり、彼らが犬を使って勝利を収めているところからみると、すくなくとも彼らが人間であったことは間違いはない。我々は里見の人たちよりどのくらい劣化しているか分からない。蠅を通り越して、ミトコンドリアあたりではないかと思うのである、やたらバカみたいな協働とか絆とか言っているから、ほぼ生物としての個体ではないとみていいだろう。

閑話休題。毛野は言う、里見家の没落を諫めようと思ったのだが、あいつ等は死ぬ程バカなのでしょうがない。そんなことをして殺されてしまってはつまらない。論語も言っておるぞ、やばい国には入らず、乱れた国は居ない方がいいぜ。ということで、我々は他の山に移ろうとも思うんだが、と。続いて他の犬たちも、「もし迷って、職や録を惜しんでこの国で徒党なんか組んだら俺たちの名を貶めるぞ」と説教する。

犬たちも戦争やらずに歳をとるとマトモになっている。国が乱れると職や給料のために滅茶苦茶になってしまうぞと子犬たちを諫めているのであった。いや、もはや彼らは犬ではない。人間になったのである。子犬たちは、「踧然と畏みて、頭を低てありける」のであったが、

怪しむべし八個の翁は、忽焉としてあらずなりて、室中に馥郁たる、異香しきりに薫るのみ。


八個の翁というのが、人間としての玉の如く表現しているようでいいとおもう。翁たちは仙人になったとか、ならないとかはこの際どうでもよく。日本においては人間には住む場所はないのである。犬しか生きられぬことを馬琴は知っていたのであった。「破戒」の主人公は、テキサスに行こうとか言っているが、これはよくある話であって、まだ犬のレベルを抜け出ていない。人間であるためには、消えるしかないのであった。切腹や心中はだめである。犬に好かれてしまう。消えるのがいい。

自分の不如意や病気の苦しみに力強く堪えてゆくことのできる人間もあれば、そのいずれにも堪えることのできない人間もずいぶん多いにちがいない。しかし病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることのできない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして嫌応なしに引き摺ってゆく――ということであった。

――梶井基次郎「のんきな患者」



わたくしが気になるのは、若い頃犬だったから八犬士の翁は消える体力もあったのではないだろうかということである。近代では、早熟に人間にならざるを得ない人も多く、中年以降、消える体力はない。無理にみんなで消えようとすると、上のような軍隊での死みたいになる。