★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2019-12-17 23:34:30 | 文学


生ひ先なく、まめやかに、えせざいはひなど見てゐたらむ人は、いぶせく、あなづらはしく思ひやられて、猶、さりぬべからむ人の女などは、さしまじらはせ、世の有様も見せならはさまほしう、内侍のすけなどにて暫時もあらせばや、とこそ覚ゆれ。宮仕へする人をば、あはあはしう、わろきことに言ひ思ひたる男などこそ、いとにくけれ。げに、そも、またさる事ぞかし。かけまくも畏き御前をはじめ奉りて、上達部、殿上人、五位、四位は更にもいはず、見ぬ人は少なくこそあらめ。

結局、世間を知るためには、宮仕えした方がいいという。それは顔を晒すからなのであった。男にとってそれがはたしなく思われようとも。いまでも、世間で生きることとは顔を晒すということである。結局、ネットの世界が世間にならないのは、それがなくても表現が可能だからなのである。内田樹氏は確か顔を新聞などで出したくない時期があったと記憶するが、――結局、結構出すようになった。それは、内田氏がもともとネットでものを自由気ままに書いていた状態から出発したことと関係があったと思う。

一方、文章ではなく、結局お前は顔を出したいだけであろうみたいな、本の著者もかなりいる。完全に上の「世間」に向かっているのである。これは、今のような大衆読者=世界に向かっているのではなく、やはりこれはある部分の「世間」のみに向かっていると見た方がよいと思う。だからなのか、彼らの表情は、明らかにはしたなくなっている。

清少納言が批判する男たちの中には、上のような事情を感知していた者がいたと思う。

わたくしなんかも顔を大勢のなかで晒す職業である。「世間」に堕落しないような顔でい続けることは難しいが、教師とはそういう部分で頑張る必要があると思うのだ。ところで、マドンナのPVをまとめて見てみたのだが、マドンナは「世間」の顔をつくりながら、それ以外の顔をものすごくたくさん表出している。我々は、マドンナの性的表現に幻惑されていたが、結局彼女の場合重要なのは顔なのだと思った。

マドンナは声も姿もマネキンみたいだなと安部公房を読みながら思っていた思春期のわたくしは間違っていた。