★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

インテリの喧嘩――清少納言

2019-12-14 23:13:23 | 文学


中宮定子がお産のために平生昌の家に移った。中宮の実家は既になかったのでしょうがなく、かつて定子に仕えていた大進の生昌の家に行ったのである。生昌兄弟にはいろいろあったらしく、――要するに、藤原道隆を見限って道長に接近したという事情で、清少納言も嫌っていたらしい。とはいっても、平家物語の世界のように「なんだと」「殺すぞ」みたいな感じではなく、「なんなのあのお方は」「ひとこと言ってやりませう」みたいなかんじである。

門が新調されていたんだが狭くて車では入れない。で、筵を引いてバタバタしながら歩いたのである。いらいらしているところに、中宮が「みんなが見てるというのに、油断しましたわね」と笑うので、清少納言としてはプライドが活火山のようになっている。「あなた、門が狭すぎるわよ」というと、生昌は「身の丈に合った門だもん」という。

「されど、門のかぎりを高う作る人もありけるは」といへば、
「あな、おそろし」とおどろきて、
「それは于定国がことにこそ侍るなれ。ふるき進士などに侍らずは、うけたまはり知るべきにも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、かうだにわきまへ知られ侍る」といふ。
「その御道もかしこからざめり。筵道敷きたれど、みな落ち入りさわぎつるは」といへば、
「雨の降りつれば、さも侍りつらむ。よしよし、また仰せられかくることもぞ侍る。まかり立ちなむ」とて往ぬ。


せっかく生昌さんが「あっ、それ于定国の話ですよね。ぼくも勉強の道を歩いたんで知ってます」とフレンドリーに返したのに、学に拠って立つ人間に中途半端な学をひけらかしてはならぬ。わたくしに容易に「弁証法的唯物論」とかの話をしてはイケナイのと同じである。案の定、清少納言は「道といっても、お前さんの道は筵ひいてもでこぼこじゃねぇか、お?」と大反撃。学があるものが感情的になると、そこらのチンピラよりもタチが悪いのは大学に来れば分かります。

彼は漸く浮き上った心を静に愛しながら、筵の上に積っている銅貨の山を親しげに覗くのだ。そのべたべたと押し重なった鈍重な銅色の体積から奇怪な塔のような気品を彼は感じた。またその市街の底で静っている銅貨の力学的な体積は、それを中心に拡がっている街々の壮大な円錐の傾斜線を一心に支えている釘のように見え始めた。
「そうだ。その釘を引き抜いて!」

――横光利一「街の底」


清少納言に欠けているのは学ではなくファンタジーであり、だから「をかし」とか言っていられるのである。