★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

春は曙――昼夜逆転物語

2019-12-09 23:15:02 | 文学


春は曙。やうやう白くなりゆく山際、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。


体言止めがなんか不愉快……。清少納言は、あとで「冬はつとめて」とも言っておるから、早起きなのであろう。いや、この「紫だちたる雲の細くたなびきたる」感じが心に染みるのは、たとえば徹夜で論文を書きながら心的黄昏のなかでみる朝焼けのようである。だれかが死んだのか悲しい気がする。いや、清少納言は昼夜逆転しているに違いない。勉強しすぎてリズムが狂ってしまったのだ。漢籍を浴びるように読んだあと、疲れて、若い身空で随筆的悟りみたいな、あはれに弊れた感じになっているのが彼女であろう。

夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。


やはり、夜が好きなようである。夜なのに月が好きだと言うことは、わたくしなら、深夜の蛍光灯が好きという感じである。あっ、つい蛍を出してしまいましたが、わたくしも蛍が飛び交っているのを見たことがあります。「東亜協同体論」についての論文を書いていたときです。部屋の隅に天使が居たのです。鼠でした。うつらうつらしていたら、今度は目の前に黄色い火花が見えました。火花は雨のように視界を移動していきました。

秋は夕暮。夕日のさして山端いと近くなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲の音など。


秋の夜長は論文執筆の季節です。夕陽が落ちてくると俄然やる気が出てきます。うるさい烏は寝床に行くでしょう。三、四、二……。つい、烏なんかを数えてしまいました。確かに、川の石を数え始めるよりはましです。ブルックナーは本当にそういうものを数える人だったらしいのですが、彼の音楽は、黄昏の烏を眺めるような気分の箇所が何カ所も出てきます。よくみると、雁が向こうで米粒のようになっていて、それも数えてしまいそうです。このままだと気が狂いそうですが、日が暮れてしまえばこっちのもので、風の音と虫の声だけなのだから、これが気分がよい。

冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃・火桶の火も、白き灰がちになりぬるは わろし。

そろそろ眠くなってきたところで、雪でも降っていれば、何にも数えなくていいからよいね。わたしの頭も真っ白よ。眠いので、女房たちよ、さっさと炭火をもっていらっしゃい。昼になってしまうと、まだ寒いのに、炭は白く、しかし寒くないから、雪の白さのように張り詰めた感じがない。わたくしは眠いので気分が悪いのであった。

岡本かの子が「靉靆の形に於いて清亮の質を帶びるものを「朧」の本質ともいふべきか。」(「朧」)と言っている。そこで、岡本は「春は曙」にも触れていたわけだが、――わたくしは、その「清亮の質」とやらが普通の状態ではありえないと思うだけである。清少納言のレベルのインテリが、「春は曙がイイネ」とか本気で言ってると思うかね……。それを日本の美とやらの説明に使っているセンスの狂った人間は許せない。