★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

南方的聖女の敗北

2019-12-30 19:35:49 | 文学


三浦常夫の「聖女」は、敬虔なカトリック信者である妹の彌榮子に、兄貴(僕)が、「いたづら天使」が地球の回転速度を百倍にしたら、とか言っても緘黙されたので、「人間なんか、消し飛んでしまふよ!」と言ってみたがやっぱり緘黙で返されたので焦る話である。結局、この妹は日本にキリスト教を広めるべく祈る聖女であるよというのが結末なのだが、そこにいたるまでのプロセスがひでえ。

お前こそ神様の恩寵を受け、キリストの花嫁となるべく生まれてきた女なのだ。僕は何か涙あふれて来た、落ちこぼれる涙をこらへて僕は、にんまり笑って見せるのである。


泣くな、そしておまへのその笑顔は不気味なんだよ、お前が消し飛べ

で、「二」の冒頭がすごい。(だいたい、この程度の話を二部形式にするなよな……)

「幽霊にも階級性があるのだ、進歩的幽霊と反動的幽霊と、たとへば……」


ここで、現代の思想を一生懸命勉強した若者なら、マルクスとデリダなんかを持ち出し、よけい妹に「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました」(太宰治)みたいな言葉を言わせてしまうところであるが、三浦(日高根太郎)はさすがコギトグループを支える頭脳でもあって、普通に「蔦紅葉宇都谷峠」を出してくるところがいいと思わざるべからず。所謂「文彌殺し」である。「僕」は、それを武士階級に対する町人の反抗精神が幽霊の形をとって封建イデオロギーに反抗しているのだ、みたいな説を喋って落ち込む。結局、信仰が美しくあついのはマルクスの信徒じゃなく彌榮子の方だということで、

至聖なる耶蘇の聖心、願はくは、我日本の主の御国の格らん事を。
聖マリアの汚れなき聖心、願はくは、我日本に、御子耶蘇の御国の格らん事を。


という彼女の願いを掲げて終わっている。

結局、「僕」の頭の中には、そのイデオロギーの紋切り型と信仰の美しさ・強さみたいな観念があるだけなので、――そこにいろいろなものを代入できるんじゃねえかという意味で、非常に危険だと言わざるを得ないが、例えば、彌榮子の信仰を、「金剛不壊」とかなんとか言ったり、ちゃんと「キタる」に「格」なんて漢字をあてたりするところがちょっとしたもんである。三浦はこんな小説で、転向左翼と時局にアイロニーを飛ばしてはいても、やはり根本的には古風な「文士」である。富岡鉄斎の研究をやれるわけだ。

ゲーテやシュトルムの翻訳で知られる馬場久治なんかは、昭和10年代の『コギト』に「ニイチェと音楽」なんかを書いていて、ワグナーを批判しカルメンに傾倒したニーチェを褒めているのだが、――北方的な西洋文化に対するビゼーの音楽には、アラビヤやアジア的なものさえあると書いて嬉しそうである。ワグナー=ナチスに傾くドイツと同盟を組みながら、南方に対する何かを合理化しようとするあれがすごい。そういえば、「抜刀隊」の歌は、カルメンの影響があるそうな……

モスラ~ヤっ モスラー
ドゥンガン カサクヤン インドゥム~


十字架と関係があるモスラは、もしかしたら彌榮子みたいな人が呼んだのかもしれない。この前にみた『ゴジラキングオブモンスター』は、ゴジラやモスラの音楽にあった「金剛不壊」なものをワグナー的な混沌に変形してしまっていた。南方の北方的解消である。いや、敗北である。

だいたい、複雑なものに、明瞭なものが勝てると思っている時点で、思考が小学生だと思う。