★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Oiseaux exotiques

2019-12-27 17:55:31 | 文学
King Gnu - Prayer X


ちょっとプロコフィエフみたいな曲である。

鳥は、異所のものなれど、鸚鵡、いとあはれなり。人の言ふらむことをまねぶらむよ。郭公。水鶏。しぎ。都鳥。ひは。ひたき。
山鳥、友を恋ひて、鏡を見すれば慰むらむ、心若う、いとあはれなり。谷隔てたるほどなど、心苦し。鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声の雲居まで聞ゆる、いとめでたし。頭赤き雀。斑鳩の雄鳥。巧鳥。
鷺は、いと見目も見苦し。眼居なども、うたて萬になつかしからねど、ゆるぎの森にひとりは寝じとあらそふらむ、をかし。水鳥、鴛鴦いとあはれなり。かたみに居かはりて、羽の上の霜払ふらむほどなど。千鳥、いとをかし。


清少納言は別に一人で日記を書いているわけではない。ゼミで喋っているようなものだと思うのである。

昨日、同僚と話していて気づいたのである、2000年代以降の大学教員としてのわたくしは、 いかに学生に研究活動をして貰うかに腐心してきた節があって、――それはバカみたいなグループワークを避けながらレポートやレジメの作成に集中させるやり方をとってきたのであるが、確かに、自己慰撫的な協働をさせない点は成功だったとはいえ、優秀でない学生が自己反省のループに捕らわれることも多く、必要なのは、活動ではなく、その前に認識を伝えることであると言わざるをえない。わたくしも知らず知らずのうちに学問ではなく労働をさせていたのかもしれなかった。あいかわらず、「上からの講義」を神経症的に避けたい御仁たちの気持ちを考えると不憫だが、我々は、おしゃべりをさせる前に、レポートを書かす前に、こちらの認識を語らなければならないのである。思想の押しつけになるとかいう人はさっさと教育現場から去るべし。問題は教師と学生の双方向性でも力関係のバランスでもなく、正しさの感染、つまり弁証法である。

清少納言はやはり啓蒙的な人だと思う。彼女の「をかし」や「あはれ」は、塾講師が「ここ入試で出ますよ」と言っているのと同じではなかろうか。当たり前であるが、「をかし」の認識などというものはなく、「をかし」な認識があるだけなのである。上の文章から「あはれ」や「あはれ」を抜いて読むべきだ。すると、鳥類図鑑みたいなものが浮かんでくる。

鶯は、詩などにもめでたきものに作り、声よりはじめて、様かたちも、さばかり貴に美しきほどよりは、九重の内に鳴かぬぞ、いとわろき。人の「さなむある」と言ひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかり侍ひて聞きしに、まことに更に音せざりき。さるは、竹近き紅梅も、いとよく通ひぬべきたよりなりかし。まかでて聞けば、あやしき家の見所もなき梅の木などには、かしかましきまでぞ鳴く。

もう少しで、清少納言は野鳥の会に入ってメモを取り始めそうである。独歩の「武蔵野」は案外風景ではなく文学作品の羅列で彩られているが、その果てに人間のうごきが風景の中に見出されてくる。このプロセスは、いまも有効である。我々はいまだに、文学作品から風景に迫ることができる。風景は現実ではない?確かにそうである。文学作品を読むことは偏見への道ではなく、虚構――あり得る現実の中でしか現実は風景として姿を現さないという自明の理への道である。