今回は、Michiさんの案内で、カーヒー神社跡を探検した様子をお知らせします。
探検隊のメンバーです。
いよいよタガンタガンのジャングルに分け入ります。
今は乾季なので下草が少ないようなので、少しは楽のようですが蜂の巣だけは警戒して入りました。
Emiiは、日本出発の時から蜂の攻撃を心配して、玉葱の入っていた網袋で蜂避けの防具を作っていたので、それを帽子の上から被り、皆に大笑いされました。
あまり苦労をしないうちに、神社の跡にたどり着きました。
白爺が最初にテニアンに来た頃は、まだ立っていた鳥居が今は倒れていました。
倒れた鳥居の上には、南洋桜の古木と思われるものが圧し掛かっているので、退けようとしたが動きませんでした。
灯篭の頭はどこかに隠れていて、白爺には見ることが出来ませんでした。
神殿に着きました。
ありどんさんが、お江戸日本橋から持参された「福豆」を神殿にお供えして、皆で拍手を打ち参拝をしました。
続いて白爺の音頭で、少し早い豆まきをしてきました。
豆まきの掛け声は、鬼畜米英といわれた米軍のお蔭でEmii達の今があることを考えて、「福は内!鬼も内!」と掛けてきました。
付近には、手洗いの水場跡も残っていました。
境内を更に奥には入ると、大きな建物の土台が残っていました。
この土台は、桁外れに大きいので、「神社の社務所跡ではないなー」と思って白爺が眺めていたら、Michiさんが「この辺には上陸した米軍の設営隊キャンプがあったと聞いている」と話してくれました。
大きさから考えて、多分その土台だろうと結論付けてきました。
古い資料を見ると
説明
”107海蜂隊の司令部・正面が礼拝堂 後ろが劇場”とあります。
直線先の建物がこの土台ではないでしょうか?。
テニアン唐辛子(ドンニー)が沢山ありましたよ。
カーヒー神社の参拝が終わったので、次はテニアンの玉砕後、生き残った日本人を収用していた収用所跡を探検することになりました。
収容所に行く途中通過する交差点にある、米軍107海蜂隊の記念碑に立ち寄りました。
白爺は、いつも通過していた場所ですが、立ち寄ってみると美しい記念公園になっていました。
アメリカの人が来島するときは、必ず立ち寄る場所だと聞いています。
107海蜂部隊は、テニアン占領後短期間でB29の基地を設営し、アメリカが戦勝国になるために大きな貢献をしたので、アメリカ政府から表彰をされた部隊だそうです。
(原爆基地を造った部隊ですからねー)
収用所があった場所に来ました。
この建物は、テニアン支庁のカーヒー駐在所跡です。
すっかり蔓草が絡んでいました。
この建物の、道路を挟んだ向かい側が、日本人が収容所されたキャンプ跡ですが、タガンタガンのジャングルになっているので入ることが出来ませんでした。
(慣れない人が一人で入ると、方向感覚がなくなり出てこられませんから、絶対入らないでください。)
写真は、駐在所の奥ですが、ここに現在会津坂下町に住む伊藤さんの家がありました。
なお、この付近には、戦勝国人(昨日まで日本人として一緒に生活していた中国人や朝鮮人)のキャンプが作られていたそうです
Emiiの話では、日本人より優遇されていたそうです。
その頃のキャンプを、上空から写した写真です。車は右から入ってきました。
青線の先が、駐在所の建物跡です。その右上が戦勝国のキャンプらしいです。
下に広がる建物群が日本のキャンプだそうです。
今日はここまで!
次回は、日の出神社参拝の様子をお知らせする予定です。
待っててねー。
探検隊のメンバーです。
いよいよタガンタガンのジャングルに分け入ります。
今は乾季なので下草が少ないようなので、少しは楽のようですが蜂の巣だけは警戒して入りました。
Emiiは、日本出発の時から蜂の攻撃を心配して、玉葱の入っていた網袋で蜂避けの防具を作っていたので、それを帽子の上から被り、皆に大笑いされました。
あまり苦労をしないうちに、神社の跡にたどり着きました。
白爺が最初にテニアンに来た頃は、まだ立っていた鳥居が今は倒れていました。
倒れた鳥居の上には、南洋桜の古木と思われるものが圧し掛かっているので、退けようとしたが動きませんでした。
灯篭の頭はどこかに隠れていて、白爺には見ることが出来ませんでした。
神殿に着きました。
ありどんさんが、お江戸日本橋から持参された「福豆」を神殿にお供えして、皆で拍手を打ち参拝をしました。
続いて白爺の音頭で、少し早い豆まきをしてきました。
豆まきの掛け声は、鬼畜米英といわれた米軍のお蔭でEmii達の今があることを考えて、「福は内!鬼も内!」と掛けてきました。
付近には、手洗いの水場跡も残っていました。
境内を更に奥には入ると、大きな建物の土台が残っていました。
この土台は、桁外れに大きいので、「神社の社務所跡ではないなー」と思って白爺が眺めていたら、Michiさんが「この辺には上陸した米軍の設営隊キャンプがあったと聞いている」と話してくれました。
大きさから考えて、多分その土台だろうと結論付けてきました。
古い資料を見ると
説明
”107海蜂隊の司令部・正面が礼拝堂 後ろが劇場”とあります。
直線先の建物がこの土台ではないでしょうか?。
テニアン唐辛子(ドンニー)が沢山ありましたよ。
カーヒー神社の参拝が終わったので、次はテニアンの玉砕後、生き残った日本人を収用していた収用所跡を探検することになりました。
収容所に行く途中通過する交差点にある、米軍107海蜂隊の記念碑に立ち寄りました。
白爺は、いつも通過していた場所ですが、立ち寄ってみると美しい記念公園になっていました。
アメリカの人が来島するときは、必ず立ち寄る場所だと聞いています。
107海蜂部隊は、テニアン占領後短期間でB29の基地を設営し、アメリカが戦勝国になるために大きな貢献をしたので、アメリカ政府から表彰をされた部隊だそうです。
(原爆基地を造った部隊ですからねー)
収用所があった場所に来ました。
この建物は、テニアン支庁のカーヒー駐在所跡です。
すっかり蔓草が絡んでいました。
この建物の、道路を挟んだ向かい側が、日本人が収容所されたキャンプ跡ですが、タガンタガンのジャングルになっているので入ることが出来ませんでした。
(慣れない人が一人で入ると、方向感覚がなくなり出てこられませんから、絶対入らないでください。)
写真は、駐在所の奥ですが、ここに現在会津坂下町に住む伊藤さんの家がありました。
なお、この付近には、戦勝国人(昨日まで日本人として一緒に生活していた中国人や朝鮮人)のキャンプが作られていたそうです
Emiiの話では、日本人より優遇されていたそうです。
その頃のキャンプを、上空から写した写真です。車は右から入ってきました。
青線の先が、駐在所の建物跡です。その右上が戦勝国のキャンプらしいです。
下に広がる建物群が日本のキャンプだそうです。
今日はここまで!
次回は、日の出神社参拝の様子をお知らせする予定です。
待っててねー。
今を歩いて過去を紐解いていくmichiさんの楽しくて的確なご案内、そしてかつてをご存知の白爺さまご夫妻には、今を歩きながら当時の様子やエピソードを聞かせて頂きました。みなさんとご一緒にちょっぴり早い豆まきもできて、ドンニもたくさん摘んで、椰子の実を拾ったりと、貴重な歴史のお勉強ができて自然とたくさん戯れた、とても楽しいハイクでした。
2014年に移転を完了するそうですが、テニアンに大きな影響が出るものと思います。
日本の企業も建設に参加するそうです。
何時まで、今のようなテニアンが残るのでしょうね?心配しています。
変わる前にEE釣りに行かなけりゃー!。
頭がぶつかっても乗るから、ノースさん早く4月からのワールドパーク料金を発表してください。