戦後62年の月日が経ち、南洋から引き揚げてきた方達も、みんな高齢者の仲間入りをしました。
昨年は、戦中から「南洋群島共助議会」⇒「南洋群島協会」と続ずいてきた南洋からの引揚者援助・親睦団体も解散してしまいました。
5年前になりますが、テニアン島で全国大会が開かれ、沢山の人が集まって余興の島民踊りに喝采をしたことが夢のようです。
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孫の家は、ドイツのログハウス設計図を模して作ったそうです。
白爺には、和風の間取りが合っているようなのですが、若い人たちには現代風の間取りのほうが住みよいようですね。
広い敷地内には、両親が住む本家と海外からの農業研修生(ニュージランド・オーストラリア・オランダの方がホームスティしながら日本の農業の研修をしている)が生活している寄宿舎と孫の住家が点在しています。
孫の家の前には、ビニールハ . . . 本文を読む
八ヶ岳の山麓には、もう秋が忍び寄って来ています。
不安定な気候がようやく極暑に変わった東京を離れて、白爺は孫の所に来ています。
ここ信州南牧村は、紫外線が強くても、日陰に入ると爽やかな風が肌を撫ぜてくれるので、少しも暑いとは感じていません。
近くにある、本州で一番高い所の駅・小海線の野辺山付近は、もうコスモスの花が満開になっていました。
前にも話し . . . 本文を読む
1980年12月の話です。
その頃のテニアン港桟橋は、まだ損傷も今ほど大きくなく、又魚釣り禁止という野暮なお告げもありませんでした。
魚も沢山いて、初めて竿を持った人にでも、簡単に魚がかかってくれました。
ということで、日が沈む頃になると、チャムロのオカミさん達は、釣竿かついで桟橋に集まってきました。
白爺達も誘われてよく行きました。
白爺の釣竿も、当時はテニアンに保管していなかつたので、 . . . 本文を読む
写真は第2校舎・卒業式はこの手前第1校舎の前で行われた。
白爺にも小学生時代がありました。
もっとも小学校とは言わないで、国民学校初等科と言っていましたが。
入学式は1938年(昭和13年)・卒業式は1944年(昭和19年)ですが、
5年生からは戦争が激しくなり、飛行場作りや海岸線の陣地構築に動員されたので、まともな勉強はして . . . 本文を読む
新宿駅東口です
白爺は、久しぶりに新宿に出かけました。
毎年春・秋に行うOB有志の旅行を相談するのが目的ですが、
それ以上にワイワイ騒ぎながら、一杯やるのが目的になっています。
新宿は、最近沖縄ブームになっているようですが、これとは関係なく、
白爺の娘夫婦が経営しているということで、このグループの会合は、Iデ . . . 本文を読む
今年も、8月15日の終戦記念日を迎えようとしています。
白爺は、アルバムを整理しようと思って戸棚を開けたところ、古い新聞の写しが出てきました。
この写しの中に、太平洋戦争 開戦翌日の昭和16年12月9日と
終戦詔書が発令された20年8月15日のもの が入っていました。
終戦記念日を迎えるにあたって、皆さんも当時の報道を見てください。
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宮古島は、昨年10月1日から、島全体が宮古島市になりました。
宮古島空港は、南国情緒のある建物です。
Tホテルの目の前には、マイパマビーチの白浜が続ずいています。
東平安名崎は、島の南東部にある景勝地です。
「昔、マムヤという美人がいたそうです。
この美人は、妻子のある男性と恋をしてしまったそうです。
しかし、こ . . . 本文を読む