白爺の独り言

故郷テニアン島へ帰る旅!
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テニアン玉砕 ①(日本海軍第1航空艦隊テニアンへ進駐)

2006-04-28 09:59:20 | テニアン玉砕
白爺の手元にある写真を整理して、テニアン玉砕の記録を残すことにしました。
既に、お知らせしたものと、同じ写真もありますがお許しください。

1944年2月。
テニアン島は、米軍の潜水艦が顔を出したとか、米軍機動部隊が近ずいているとか、噂は広がっていましたが、まだ「引揚げ船が撃沈された」という声を聞くだけで、切迫した戦争の実感はありませんでした。

しかし、本土では戦局が切迫してきたとして、第1航空艦隊司令部をテニアン島に進駐することにしたようです。

少し古いが、平和なテニアン島時代の建物です。


  テニアン郵便局
 裏側に無線通信室が建っていました。
 今残っている建物跡は無線室の一部だと思います。

                 
                    南洋庁サイパン支庁テニアン出張所


南洋興発テニアン製糖工場

                 
                 テニアン興発病院


 興発クラブ

                 
                     マルポ市街地 馬場商店


チュ-ロの千本木(ガジュマル)

さて、1944年2月の大本営発表を聞きましょう。

「2月22日午前、空母10数隻・戦艦8隻を基幹とする敵機動部隊はマリアナ諸島東北海面に出現せり。帝国海軍航空部隊は逸早くこれを捕捉し22日夜半より23日黎明に亘反覆攻撃を加え、空母1隻大型軍艦3隻(内2隻空母の算大なり)を撃沈、空母3隻を中破せり。敵は23日午前延べ200機の艦載機を以ってサイパン・テニアン・グアム島を空襲せる後東北に遁走せり。我方の損害軽微なり」

                 
                  テニアン上空を偵察する米軍機


 中央上部の建物が幼稚園(今のフレミングホテル付近)

                  
                   右上部の建物がテニアン小学校

ここで、白爺がサイパン空港でお会いした、春田實行さんの記述を読んでみましょう。
春田さんは、テニアンの航空隊に配属されたが、フィリピン・台湾等の基地を転々とした後海軍航空隊教官として内地配属となったので、九死に一生を得たそうです。
いまは、「九州台湾親善交友会」の役員をされているそうです。

              

1944年2月17日。
第1航空艦隊龍部隊の春田搭乗員は、鹿屋基地で「テニアン向け先発隊として雷撃隊2個中隊18機をもって発進せよ」と命令を受けていた。
翌朝5時中隊は鹿屋基地を発進し、雪降り積もる千葉県木更津航空基地に着陸した。
燃料補給と整備のため1泊して、19日早朝18機の一式陸攻は、編隊飛行でテニアン基地に飛び立った。

午後サイパン基地に到着したが、燃料補給と整備のため一泊した。
珊瑚礁に打ち寄せる波を眺めながら浜辺を散歩したが、飛行機搭乗員は神経が麻痺しているためか、興味や感激を味わうことが出来なかった。
20日テニアン基地に到着したが、第一航空艦隊本隊を迎える準備があるので、21日までは準備に追われた。
22日昼頃、ようやく哨戒機の発進に漕ぎ付けた。

2時頃早くも敵機動部隊発見の電信が入り、「空母10数隻・戦艦8隻を基幹とする大部隊」と聞いてテニアン基地は俄然色めきたった。

飛行長は「陸攻18機を以って夜間雷撃を敢行し、敵を殲滅せよ」と訓令した。
我々を援護する零戦隊虎部隊は、まだ鹿屋基地で訓練中で、テニアンに配属されていない。
我々は、丸裸の陸攻隊で出撃することになった。
西の空が茜に染まる頃、機は上昇して東へ東へと進んで行った。

一機の陸攻機には6名の搭乗員が乗っている。6名は皆同じ運命を持っていた。
時が経つにつれ雲が流れ、視界が悪くなってきた。

雲上飛行なので敵の姿が見えないが、突然火炎と共に雲が紅色に染まった。
艦砲射撃の始まりである。
碧い目のアメリカ人は視力が弱いと見縊っていたが、紅い炎は修正されつつ機に近ずいて来る。
敵は既にレーダーを使用していて、雲の下から我々を把握していたようだ。

ぐずぐずしていると一方的にやられるので、指揮官機から突撃突撃の信号が点滅された。



雲を抜けて降下すると、敵の艦船が白い航跡を曳いていた。
我々の機は海面激突寸前で魚雷を投下した。
魚雷の成果は?と思うのだが、炎と煙幕で確認は出来なかった。

漸く東の空が白む頃、テニアン基地に帰り着いた。
さて一眠りしようかと横になった途端空襲警報のサイレンがなった。

サイパン方面の空を見上げると、一機又一機と帰ってくる我が僚機に向かって、F6Fグラマンが襲い掛かっている。
身重の陸攻機は、真っ赤な炎を吹いたと思う瞬間爆発して、小さな破片になり飛び散っていった。
これが米軍得意の”送り狼戦法”である。
送り狼は、何より確かな索敵方法といわれていた。

鹿屋から転属してきた18機の陸攻機は、サイパンに1機テニアンに3機が帰ってきただけで、後の14機は太平洋の藻屑となってしまった。

白爺は、この第1回目の空襲を、避難していたマルポ(今の新ソンソン付近)のマンゴーの木の上から、弟と眺めていました。
「今日は実弾演習をしていると言いながら」 


 
参考にさせていただいた資料等は次のとおりです。
・南洋興発開拓記念写真帖
・南興会便り
・九男坊の戦場(春田實行氏著)
・TINIAN昔と今
・元米国海兵隊の友人から頂戴した写真等






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13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
だんだん・・・ (ちづ)
2006-04-29 02:33:07
戦争を知っている世代の人が減っていきます。記録に残すのも大切なことだと思いました。
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Unknown (優希♀)
2006-04-29 10:54:53
初めまして。テニアンが大好きで今のところ二回遊びに行ってます。島の到る所に当時の面影があり、それを見ていると、とても不思議な気持ちになります。今は人口も少なく多くの自然に囲まれて平和な島なのにたった60年時間を巻き戻すだけで悲惨な場面が繰り広げられてる場所になってしまうなんて。あの断崖絶壁から飛び降りた人たちがいると思うと今でも涙が止まりません。当時を生きた人たちの為にも戦争の記録と記憶をできるだけ多くの人にぜひ伝えてくださるとうれしいです。
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有り難う (白爺)
2006-04-29 13:21:05
優希さんコメント有り難う。

サイパンも良いが、海はテニアンに限ります。

大袈裟に準備しないで、シュノーケルだけすればタチョンガビーチで沢山の魚も見られますしねー。

これからも、テニアンを応援してください。
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いつまでも。。。 (HTIおじさん)
2006-04-29 17:16:51
団塊の世代よりちょっと若い私ですが、戦争の話を聞くのはオヤジぐらいしかおりません。

私達は、もっとキチンと正確に歴史を学ぶべきですね!!

このごろ、痛切に感じます。

白爺さんがんばってください!!

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頑張ります (白爺)
2006-04-29 19:13:22
記録に残しておくのも、生き残った者の義務だと感じるようになりました。
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ほんとに貴重な (ありどんだす)
2006-05-01 00:36:42
お写真とお話、胸に迫ります。当時のテニアンはとても発展的で立派な建物もたくさんあったのですね。今はなくなってしまったことを考えると、戦争という名目で破壊行為をすることは、いかに愚かで無意味であり、残酷なものかを思い知らされます。大好きな島の歴史をきちんとご紹介いただけて、とても興味深く読ませていただきました。
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Unknown (Unknown)
2006-05-01 10:16:47
貴重な写真と白爺さんならではの記録の数々ですね。

航空写真のフレミングから下りて来る斜めの道路はいまもそのままですね。下りたところの交差点をスターアベニュー☆と呼んでます。今は5差路になってるから。



南洋庁サイパン支庁テニアン出張所跡地はフレツリちゃんと探索しましたが正面玄関の面影がまだ残っていて当時の様子が目に浮かぶようです。





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私です。↑ (michi)
2006-05-01 10:19:07
白爺さん!名前入れなかったよん。
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近況報告多謝! (白爺)
2006-05-01 11:09:34
昔の写真に、近況をお知らせ願えて感謝します。

これからもしばらく続ずけますので、近況を載せてください。
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自決について (布村 建)
2007-06-23 12:38:49
日本軍の兵士が民間人の自決をとめる話がありましたが、サイパンにくらべ民間人の死者の比率が低いよいうです。
以前、角田少将が、皆さんhが、非戦闘員ですから、と民間人に戦闘を強要しなかったという話を読んだ記憶があります。実際はどうだったのでしょうか。ご存知の範囲でご教授下さい。
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