
先日の南興会(南洋興発親睦会)で、菅野栄子さんが持っていた「会津人群像(歴史春秋社)」という本に、松江春次社長のことが掲載されていたので注文しました。
松江社長のことは、いろいろな資料で読んでいますが、この本は会津人としての松江社長が描かれていて、本当に面白く読みました。
あらためて知った松江社長像を、一寸ご紹介してみましょう。

本の目次
松江社長(以下春次という)は、明治9年に会津若松市で生まれ、旧制会津中学校(現会津学鳳高校)の1回生として勉学した。
野口英世(以下英世という)も明治9年に生まれたので同い年であった。
そして二人が付き合い始めたのは、春次が胃病で会陽病院に通院し渡辺先生の診断を受けることになったが、そのときの薬局生として勤めていたのが英世で、このときからである。



ある日英世は、春次を中学の校庭に尋ねてきて、英語の本とノートを貸してくれといってきた。
春次は友達の分まで借りて貸してあげたそうだ。
このときの英世の姿はヨレヨレの木綿袴で髭もぼうぼうであった。
明治40年、春次が糖業の研究のため渡米して、ニューヨークのロックフェラー研究所に野口博士を訪ねたら、今度は外人助手数名を使って世界的研究をしており、偉い勢いになっていて貧乏書生の姿はなかったそうである。

後列が春次 2列目が英世です
第1次世界大戦後ベルサイユ条約によって南洋群島は日本の委任統治領になった。
この島々を最初に開拓したのは西村拓殖㈱で、先ずサイパンで砂糖キビを栽培して糖業を起こそうと労働力に韓国と日本内地から500名を移住させたが、商品にならず失敗してしまった。
続ずいて進出したのが南洋拓殖㈱だが、これも乱脈経営で失敗してしまった。
春次はその頃サイパンに渡り、各会社が糖業を失敗した原因と土壌が砂糖キビ栽培に適しているかを詳しく調査していた。
結果は土壌は最適だし、極度に窮乏化している移民救済のため、開発会社を設立することが急務であると考えた。
周囲は猛反対をしたが、春次はこれを押し切って、南洋興発㈱を設立し専務の役に着いた。
大正12年3月10日に新式機械を導入して製糖を開始したが、結果は惨憺たるもので、歩留まりは台湾産のものに比べて三分の一にも満たなかった。
糖度の低いのは、「おさぞう虫」による病虫害が原因であることも分かった。
この頃、春次に対する批判は高まるばかり。サイパン現地の子供たちまでが、
「専務よく聞けお前の末は、サイパンあたりで野たれ死に」
と意味も分からず戯れうたを歌って歩いていたそうである。
このように四面楚歌の中でも、製糖計画には絶対の自信を持っていた春次は、土壌にあった砂糖キビ栽培の手法を工夫して、創立10年後には農園8千町歩の開墾と1万6千名の移民定住・製糖・酒精工場・鉄道建設を完成させ群島産業の基礎を確立するほか、遠くニューギニア島の開発にも着手するなど、目覚しい躍進を続ずけていた。

南洋興発が生産する砂糖等の出港税は、昭和9年には南洋庁予算の85%に達し、この功績を称えその年の8月4日にサイパン島チャランカノアに「シュガーキング春次」の銅像が建てられたが、この銅像は今もサイパンのシンボルとして現存している。
サイパンを占領した米軍は、この銅像が目障りなので取り壊そうとしたら、島民が「我々が建てた銅像だから残してくれ」と要望したので、現在も残っているのだそうである。
また、サイパン高校の教科書では、松江春次のことを現在でも教えているそうである。

サイパン高校の教科書
春次は、昭和28年には藍授章を授章し、昭和29年11月29日に東京文京区の私宅で眠るように大往生されたそうだ。
享年79歳であったそうだ。
以上が記事の抜粋だが、まだまだ面白いことが沢山掲載されています。

なお、この本には春次のお兄さんの記事も出ていますが、この方も第1次世界大戦当時に、徳島県にあったドイツの捕虜収容所の所長を務めたそうで、「捕虜は一時の職業だ」と言って、上部の反対を押し切り、対等の人間として大切に付き合い、これが日独友好の礎をつくったことで有名だそうです。

この時捕虜の方と一緒に奏でた「ベートーベンの第九」が、今日本で流行している始まりだそうです。
今週は読書週間だそうです。
この本に興味のある方は、次のホームページをご覧下さい。
白爺が宣伝を頼まれたのではありません。念の為!。
http://secure.frontea.com/~rekishun/catalog/default.php/cPath/25?osCsid=de4bd27f5a569851a905a01da9c839a8
歴史春秋社(通巻7号)です。
松江社長のことは、いろいろな資料で読んでいますが、この本は会津人としての松江社長が描かれていて、本当に面白く読みました。

あらためて知った松江社長像を、一寸ご紹介してみましょう。



松江社長(以下春次という)は、明治9年に会津若松市で生まれ、旧制会津中学校(現会津学鳳高校)の1回生として勉学した。
野口英世(以下英世という)も明治9年に生まれたので同い年であった。
そして二人が付き合い始めたのは、春次が胃病で会陽病院に通院し渡辺先生の診断を受けることになったが、そのときの薬局生として勤めていたのが英世で、このときからである。




ある日英世は、春次を中学の校庭に尋ねてきて、英語の本とノートを貸してくれといってきた。

春次は友達の分まで借りて貸してあげたそうだ。

このときの英世の姿はヨレヨレの木綿袴で髭もぼうぼうであった。
明治40年、春次が糖業の研究のため渡米して、ニューヨークのロックフェラー研究所に野口博士を訪ねたら、今度は外人助手数名を使って世界的研究をしており、偉い勢いになっていて貧乏書生の姿はなかったそうである。


第1次世界大戦後ベルサイユ条約によって南洋群島は日本の委任統治領になった。
この島々を最初に開拓したのは西村拓殖㈱で、先ずサイパンで砂糖キビを栽培して糖業を起こそうと労働力に韓国と日本内地から500名を移住させたが、商品にならず失敗してしまった。
続ずいて進出したのが南洋拓殖㈱だが、これも乱脈経営で失敗してしまった。
春次はその頃サイパンに渡り、各会社が糖業を失敗した原因と土壌が砂糖キビ栽培に適しているかを詳しく調査していた。

結果は土壌は最適だし、極度に窮乏化している移民救済のため、開発会社を設立することが急務であると考えた。
周囲は猛反対をしたが、春次はこれを押し切って、南洋興発㈱を設立し専務の役に着いた。

大正12年3月10日に新式機械を導入して製糖を開始したが、結果は惨憺たるもので、歩留まりは台湾産のものに比べて三分の一にも満たなかった。
糖度の低いのは、「おさぞう虫」による病虫害が原因であることも分かった。

この頃、春次に対する批判は高まるばかり。サイパン現地の子供たちまでが、
「専務よく聞けお前の末は、サイパンあたりで野たれ死に」
と意味も分からず戯れうたを歌って歩いていたそうである。
このように四面楚歌の中でも、製糖計画には絶対の自信を持っていた春次は、土壌にあった砂糖キビ栽培の手法を工夫して、創立10年後には農園8千町歩の開墾と1万6千名の移民定住・製糖・酒精工場・鉄道建設を完成させ群島産業の基礎を確立するほか、遠くニューギニア島の開発にも着手するなど、目覚しい躍進を続ずけていた。

南洋興発が生産する砂糖等の出港税は、昭和9年には南洋庁予算の85%に達し、この功績を称えその年の8月4日にサイパン島チャランカノアに「シュガーキング春次」の銅像が建てられたが、この銅像は今もサイパンのシンボルとして現存している。
サイパンを占領した米軍は、この銅像が目障りなので取り壊そうとしたら、島民が「我々が建てた銅像だから残してくれ」と要望したので、現在も残っているのだそうである。
また、サイパン高校の教科書では、松江春次のことを現在でも教えているそうである。



春次は、昭和28年には藍授章を授章し、昭和29年11月29日に東京文京区の私宅で眠るように大往生されたそうだ。
享年79歳であったそうだ。
以上が記事の抜粋だが、まだまだ面白いことが沢山掲載されています。

なお、この本には春次のお兄さんの記事も出ていますが、この方も第1次世界大戦当時に、徳島県にあったドイツの捕虜収容所の所長を務めたそうで、「捕虜は一時の職業だ」と言って、上部の反対を押し切り、対等の人間として大切に付き合い、これが日独友好の礎をつくったことで有名だそうです。

この時捕虜の方と一緒に奏でた「ベートーベンの第九」が、今日本で流行している始まりだそうです。
今週は読書週間だそうです。
この本に興味のある方は、次のホームページをご覧下さい。
白爺が宣伝を頼まれたのではありません。念の為!。
http://secure.frontea.com/~rekishun/catalog/default.php/cPath/25?osCsid=de4bd27f5a569851a905a01da9c839a8
歴史春秋社(通巻7号)です。
小学校の修学旅行は野口英世の生家でした。
シュガーキング春次はサイパンにとってかけがえのない人だったんですね。
白爺様のお話は、よく聞いて、次回のサイパン旅行のときに、役に立つように心の引き出しにしっかり入れておきたいと思います。