《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

沖縄からの通信~闘うオール沖縄の正念場がきた ――6・19県民大会を前にして

2016-06-13 08:21:07 | 沖縄問題
沖縄からの通信~闘うオール沖縄の正念場がきた
――6・19県民大会を前にして

A.少女暴行事件から21年、それから何があったのか

 心が痛い、心が重い……。2016年5月20日、またしても米軍軍属による20歳女性の殺人・死体遺棄事件が起きてしまいました。
 この感覚、この重く垂れこめるこの空気は、あの日と同じです。1995年9月4日、少女暴行事件がおきた時です。最初は小さな記事でした。ところが、全容が報道されるにつれ、沖縄中が凍り付きました。

 わずか12歳の少女。「ごめんなさい、ごめんなさい」……。それは、沖縄中が少女に向かってかけた言葉です。みんなが守ってやれなかったことを悔やみました。今度は成人式を終えたばかりの20歳の女性。結婚を控えていて、ご両親にとっては大事な、大事な一人娘でした。またしても「ごめんなさい、ごめんなさい」と、また20年前と同じ言葉を言わなければなりません。

 遺棄事件が報じられた2日後の5月22日、女性団体の緊急抗議集会に2000人が駆け付けました。多くの参加者が黒や白の喪服に身を包み、喪章をつけての参加となりました。怒りのシュプレヒコールもなければ、ただ立ち尽くすだけの意思表示……。もしプラカードがなければ、葬列のようにも見えました。初めて目にする抗議の形。それが、怒りの深さと大きさをよりいっそう際立たせました。

 20年前の少女暴行事件のときも、最初に声を上げたのは女性団体でした。城岳小学校のグランドで行われた女性たちの小さな緊急抗議集会。その声が瞬く間に沖縄中の女性団体に伝わり、あらゆる団体や県民の間に広がっていきました。そしてわずか1カ月あまりで10万人という、じつに沖縄の10人に1人が立ち上がった10・21県民大会へとつながっていったのです。「すべての米軍基地を撤去しろ」の声が一気に高まりました。

 「本来一番に守るべき幼い少女の尊厳を守れなかったことを、心の底からわびたい。」……1995年10・21県民大会の壇上で、当時の大田昌秀知事がまっ先に述べたことです。そして、翌1996年1月30日、大田県政は画期的な「基地返還アクションプログラム」を打ち出し、2015年までに沖縄からすべての基地を撤去することを決め、日本政府に要求したのです。それは、少女に対する「沖縄の心」、すべての県民の思いを形にしたものでした。

 それから半年後の1996年4月12日、あまりにも突然の橋本首相の記者会見でした。「普天間飛行場は、今後、5年ないし7年ぐらいに、これから申し上げるような措置が取られた後に、全面返還されることになります。」(橋本総理大臣及びモンデール駐日米国大使共同記者会見)。一瞬、普天間基地が全面返還されるような錯覚を持たせる日本政府の声明。それは、日本政府による政治的計略であり、「普天間基地の辺野古移設」という今日につづく辺野古新基地建設の始まりでした。

 しかし、それだけでは終わりませんでした。1998年11月の沖縄県知事選挙。
 選挙が近づくと、県内いたるところの電柱に「9.2」と書かれた黒いステッカーが貼りめぐらされました。何の数字なのか誰にも分かりません。さらに告示直前になると「県政不況」、「流れを変えよう」、「理想より現実」という大キャンペーンが行われました。「9.2」とは当時の沖縄の失業率。大手広告代理店の電通を使った大田知事追い落としの政治クーデターの大キャンペーンでした。のちに、鈴木宗男が官房機密費3億円を使ってやったとJNNの取材の中で語っています。

 これが20年前に起きたことです。すなわち、今日に続く「普天間移設」=辺野古新基地建設の始まりとは、あの少女暴行事件でした。それは少女の尊厳と人権を、二度にわたって踏みにじるものとして行われたのです。官房機密費3億円を使った政治クーデターで大田知事と「基地返還アクションプログラム」が葬り去られ、そうしたことの結果がこんどの20歳女性の新たな犠牲なのです。今、沖縄は再び20年前のあの日に引き戻されたのです。

B.「基地に、もう我慢できない」「もう一日も耐えられない」

 被害女性のお母さんは、「犯人をこの手で殺してやりたい」と語ったと言われます。沖縄では聞いたこともないような激しい怒りの言葉でした。「魂(まぶい)を拾いに来た」と遺棄現場を訪れたお父さんにつき出される報道のマイク。心の整理すらついていないのに、なんと酷な、と思いました。後日、お父さんが沖縄タイムス社の取材にこう話されました。「これまでも米軍人、軍属の事件があったにもかかわらず、また被害者が出た。もう我慢できない。基地全面撤去、辺野古新基地建設反対を願っている。沖縄県民の気持ちが一つになれば可能だと思っている。」――絞り出すように話された「もう我慢できない」という言葉が、いまの沖縄県民共通の声です。

 今回のような事件が起きれば、沖縄の人々は被害者やその家族の思いに自らを重ね合わせます。そこには、他人事という感情はありません。それが、明治以来、戦前期の植琉球武力併合、戦後の米軍による軍事支配、それと変わらない1972年復帰後の日本政府による植民地主義的差別支配という、長い苦難の歴史を歩んできた琉球人の共同体的な意識であり、感情なのです。ともに喪に服し、長い苦難の歴史を共に生きて来たことが、「ごめんね」の言葉となってあふれ出てくるものなのです。そして、そこに含まれているのは、そうしたことを許してしまった自分たちへの痛烈な悔恨です。

 いま沖縄で巻き起こっている怒りは、「基地があるのはもう我慢できない」、「もう一日も耐えられない」というギリギリのものです。異口同音に語られる「またか」ということは、「もうたくさんだ」ということです。少女暴行事件にたいして日本政府が行ったのは、沖縄県民をだまし、貧困に付け込んで分断をくり返し、沖縄の誇りと尊厳をくり返し踏みにじったことです。「もう我慢できない」現実とは、日本政府が行ってきたこうした沖縄に対する差別支配の20年の歴史そのものです。

 1972年の復帰後、家族や、親せきや、友人関係の中で、基地問題には触れないことが一般的になってきました。復帰前にはなかったことです。辺野古の地元では、「辺野古新基地反対」という言葉を口に出すことすらできません。金がばら撒かれているためです。もともと沖縄に「基地の賛成派」や「基地の反対派」がいたわけではありません。米軍統治下では「島ぐるみ」となって一つになりながら、憲法下での自由と、民主主義と、自治権を獲得するものとして、本土復帰闘争は行われてきたのです。金と利権をばら撒いて、「基地の賛成派」と「基地の反対派」を作り出し、その対立と分断の中で統治を行ってきたのが復帰後の日本政府でした。

 21年前の少女暴行事件の当時、まだ日本政府に対する期待も幻想もありました。しかし、今はもうありません。当時を知る人には、安倍首相や菅官房長官の姿は、沖縄の支配者として君臨した米国高等弁務官と重なります。
 「タイミング的にまずい。大変なことになった」と言いながら、繰り返される「沖縄の皆さんの気持ちに真に寄り添う」という政府発言。それを聞かされるたびに、「もううんざりだ」という言葉が噴き出します。涙の乾く間もなく繰り返される基地があるが故の事件や事故――。「もう我慢できない」、「もう限界だ」と言う意外にどのような言い方があるでしょうか。

C.沖縄―日本関係を根底的に問い糺す

 6月5日の県議選において、翁長知事を支援する「オール沖縄」が大勝を果たしました。県民の怒りと思いはここに示されたのです。これまでは、野党23議席に対して与党24議席というわずか1議席差だけの「過半数」。しかし今、与党系は27議席まで勢力を拡大し、自公を中心とした野党は3議席減の20議席です。ついに、「オール沖縄」は歴史的な大勝で安定多数を獲得しました。もう思う存分に日本政府と対決することができます。
 この安定多数とは、辺野古での新基地建設を絶対に阻止すること、海兵隊を撤退させること、そして沖縄に新たな軍事基地を作らせないこと、日米安保体制を解体することです。そして、それは間違いなく集団的自衛権と改憲に向かって突き進む安倍政治に、巨大なダメージを与えるものとなります。

 6月沖縄県議会選挙に向かって、かつてなかったことが起きました。琉球新報社が行った県議会議員選挙立候補者の調査において、立候補者全員が「海兵隊の撤退・縮小」と答えたのです。県議選の中で海兵隊撤退が言われることは、かつてないことです。「地位協定の改定」が9割で、「基地の現状維持」はゼロ。日米地位協定にいたっては93パーセントが「地位協定改定」と答えました。これこそが沖縄の民意です。いまや、自民党や公明党ですら沖縄の民意に恐れをなし、選挙では「海兵隊の撤退・縮小」や、「地位協定の改定」を言わなければならないものとなったのです。

 5月4日、県議選を前にして琉球新報社は異例の社説を掲載しました。冒頭に書かれていたのが「国策による犠牲を強いられるのは、もうたくさんだ。植民地扱いは許さない」です。沖縄では現行の日米安保をやめるよう8割の人が切望しているにも拘わらず、共同通信社の世論調査では本土の9割の人が安保に賛成し、基地の維持と強化を求めていました。本土で賛成している人たちは、果たして沖縄の現状を知って言っているのか、ということをこの社説は問いかけています。「植民地扱い」とは、日本政府のみならず、すべての日本国民に向かって問いかけられているものです。あなたたちは本当に日米安保体制の現実を知っているのか、すべてを沖縄に押し付けたままで知らぬ顔をするのか、ということです。

 こうした米軍人軍属の事件・事故については、これまでは歴史的な沖縄の反米感情から米軍に怒りの矛先が向いてきました。しかし、もう違います。米国務省が日米地位協定の検討に言及しているのに、日本政府からは「地位協定」という言葉一つ出てきません。しかし、県民は「沖縄の悲惨」を日々作り出しているのが誰なのかを知ってしまったのです。そして、今回の女性の殺害・遺棄事件では、ついに怒りの矛先が日本政府に向けられ始めました。
 一度は「祖国」と呼んだ日本。しかし、それが裏切られ、「沖縄は日本に入っているのか」と言われる現実の中で、いま「日本とは何か」、「沖縄とは何か」、「沖縄と日本との関係とは何か」が問われています。

D.6・19は沖縄―日本関係の歴史的分岐点

 すべては6・19の県民大会に向かって動いています。大会名称は、「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾! 被害者を追悼し、沖縄から海兵隊の撤退を求める県民大会」午後2時からとなりました。沖縄中の全市町村から抗議決議が上がり、県民大会の成功に向かって各市町村が独自の実行委員会を結成し、急ピッチで準備が進められています。

 こうした中、県議選前には「海兵隊の撤退・縮小」を語っていた自公が、ついに本性を現しました。「オール沖縄会議」の主催が問題だとして、県民大会つぶしに乗り出しました。この原稿を書いている現在でも、県民大会の式次第や名称も発表されていません。自公が一体となって妨害しているためです。この妨害は、菅官房長官の直接指示によるものです。沖縄問題は首相官邸の直轄事項で、外務省も防衛省も立ち入ることができません。最高指揮官が菅官房長官であることは周知の事実です。日本政府が自公を使って直接県民大会つぶしに乗り出したという異例の事態です。6・19県民大会は、沖縄と日本政府との関係の歴史的分水嶺となりつつあります。

 少女暴行事件と、「アクションプログラム」、そして大田知事追い落としの政治クーデターから20年。沖縄問題は歴史の新たな高みから20年前にラセン的に回帰したのです。政治クーデターからはじまった反動の時代、利権をばら撒きながら県民を分断し、革新の拠点を一つ一つつぶすやり方の中で、沖縄のいわゆる革新的諸党派が衰退しました。沖縄は新基地建設の現場でとことん踏ん張る市民・住民・労働者の不屈のたたかいを土台とし、牽引力として、保守、革新を超え「沖縄の自己決定権」をたたかう新たな政治勢力である「オール沖縄」を生み出しました。これを、「普天間の辺野古移設阻止」「全基地撤去」「海兵隊の撤退」「地位協定の抜本的改定」という具体的要求を掲げ、全基地撤去まで決して止むことのない時代の始まりとするために、沖縄は正念場に立ったのです。

 安倍政権は、日米安保法制-集団的自衛権の強行採決を行い、7月の参議院選挙では破産したアベノミクスで争点を隠しながら、改憲の強行を狙っています。場合によっては、民進党を割ってでも強行するでしょう。本土では、「戦争国家化」と言っても将来のこと、遠い他国のこととしか考えられていません。しかし、すでに沖縄では、安保法制を先取りする形で辺野古新基地建設や、先島での陸自のミサイル基地建設が矢継ぎ早に打ち出され、沖縄を全島要塞化する計画が進行しています。沖縄では、集団的自衛権や日米安保法制はすでに現実のものとして進行していることなのです。

 沖縄では基地を「抑止力」と思うような人は誰もいません。「地上のすべての地獄を集めた」と形容される沖縄戦の体験から異口同音に言われることは、「基地は攻撃の的になる」ということです。「鉄の暴風」と呼ばれた艦砲射撃がまっ先に狙ったところは、旧日本軍の飛行場や基地があった読谷村、嘉手納町、伊江島でした。逃げ場所のない伊江島では、住民の半数が艦砲や地上戦で亡くなりました。そうした地上戦を強いられた沖縄戦の貴重な教訓が、「軍隊は住民を守らない」です。いくら軍隊が「平和や安全を守る」、「抑止力」といっても、沖縄ではそのようなことを信じる人は誰もいません。

 6月21日までには国地方係争処理委員会での決定が出され、高裁での裁判闘争が開始されます。もしそこで沖縄の地方自治が否定されれば、沖縄は決定的な情勢に入ります。すべての沖縄県民には、日本政府は米軍支配となんら変わらない、植民地主義的な新たな沖縄差別支配だということになります。
 沖縄にとって自治権とは、米軍政下での最大の闘いでした。その米軍政の象徴こそ、ポール・W・キャラウェイ琉球列島高等弁務官です。翁長知事が語ったように、いま日本政府・安倍政権が行っていることは、ポール・W・キャラウェイの強権的政治と同じです。1964年、「沖縄の自治は神話に過ぎない」として「キャラウェイ旋風」と呼ばれた強権発動を行いました。その「キャラウェイ旋風」とのたたかいは「島ぐるみ闘争」となり、当時の親米路線をとっていた沖縄自民党は内部抗争の末に分裂にまで追い込まれました。

 一度は「祖国」とまで呼んだ日本政府が行ってきたことは、琉球列島高等弁務官以上の強権的政治を振りかざした差別的支配であり、日米同盟の軍事要塞として沖縄を新たな「捨て石」にすることです。沖縄の歴史を何も知らない安倍政権は、沖縄など吹けば飛ぶようなものだと思っているでしょうが、しかし、沖縄戦後史とは苛烈なたたかいに継ぐたたかいの歴史なのです。もし日本政府が沖縄を「抑止力」の名のもとに新たな「捨て石」にし、「弾除け」にするなら、沖縄県民は《最後的決断》をする以外にありません。それが《沖縄の自己決定権》というものです。それは国際法上も歴史的に規定された権利なのです。
 辺野古新基地や、与那国に続く石垣や宮古島への陸自のミサイル基地建設が強行されるなら、沖縄は極限的に追い詰められます。沖縄の人々の生活と生存、経済と文化、沖縄戦を二度と再び繰り返させないという根源的な願い、その心は、ことごとく抹殺される危機にたたき込まれます。その土壇場を切り抜け、苦難をのりこえる道は何かが突き付けられます。日米のすべての軍事基地を沖縄から放逐すること、そのためには日本からの独立しかない、というぎりぎりとした歴史的状況が出来することにならざるを得ません。いま私たちが沖縄をめぐって目にしているものは、そうした歴史の分岐点です。たとえそれがいばらの道であっても、沖縄県民の平和的生存権を守るためには、その道を進む以外ないという問題が根底に横たわっているのではないでしょうか。
 ですから、問題は本土人民―日本人民に突き付けられているということです。沖縄を見捨てるのか、それゆえにまた沖縄から見捨てられるのか、それとも沖縄とともに進むのか、と。

 私がこの論考で書きたかったことは、6・19県民大会の中で琉球新報社が問いかけた新たな「沖縄-本土関係」についてです。「日本とは何か」、「沖縄とは何か」、「沖縄-日本関係とは何か」ということが、いま改めて問われています。安保法制が強行採決され、集団的自衛権行使の準備が整い、改憲までもが行われようとしている現在、そして、そのために再び沖縄が「捨て石」にされようとしている現在、6・19県民大会は間違いなく一つの大きな歴史的分水嶺となります。沖縄の「決断」とは、安保法制と改憲に対しては、琉球人の誇りと尊厳をかけ、自分たち単独の力だけでも沖縄の平和的生存権を守るため、沖縄からすべての基地を撤去することです。それが《琉球独立》になるかどうかは、沖縄の人々が選択し、決断することです。問われているのは、そのことに対して本土人民―日本人民としてどう向き合うのか、ということです。

2016年6月12日
S.嘉手納(沖縄在住)
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