脳腫瘍の家族の交流の場 生命のメロディ 

そよかぜと申します。脳腫瘍を患ってみえるご本人を支え介護する家族のみなさんの交流が広がればと思っております。

家族を介護すること

2011-01-03 22:15:40 | 介護保険
姉はシングルであったため結果としてキーパーソンになってしまった。ピアノを教えることを生業とし、小生の思い出のひとつには「暇があればいつもピアノを弾いている人」であった。経済的にも自立し、脳腫瘍という病で倒れなければ、弟の手を借りて生活するなんていう気持は微塵もなかったと思う。その姉が倒れ、小生は転職し介護の仕事に就くことになった。姉の通院日が金曜日であり、金・土は姉の介護、その他の日は認知症のグループ・ホームの仕事となった。仕事で介護する場合は、利用者さんの家族関係や既往症などの概要を把握し、ケア(介護)をするのであるが、あくまでも利用者さんは「他人」であるわけです。ところが姉の場合は血が繫がっており、同じケアをするのですが何かどっと疲れるわけです。初期は左手の指にだけ麻痺があり、入浴の準備をすれば、自力でなんとか洗身、洗髪も出来たし、姉が主に生活をしていた部屋から浴室への移動もできたし、午前中は買い物、午後は入浴というケアの内容であった。車椅子の生活をしていたわけでもなく、排泄も自力で出来ていた。安全のため手を添えてはいたが、なんとか自力歩行も出来たし、調理も左手をカバーしながら、かろうじてできていた。利用者さんのケアに比べれば身体介護は安易でした。でも姉の生活を見ていると、元気な姉を知っているだけに、姉は実に気丈でしっかり者であっただけに、姉の身体に手を添えるのもとにかく緊張していました。やはり脳腫瘍という病気でしたし、予後が思わしくない神経膠芽腫であったからだと思います。8月に発病、9月にオペ、ほっと一安心と思ったら11月に再オペ、とんでもない病気だとそら恐ろしくなりました。年を越せないのではないかと危惧しました。職場の同僚は理解もあり、いろいろなアドバイスもしてくれましたが、姉とのコミュニュケーションが一番の課題でした。自然なコミュニュケーションが出来ないわけです。言葉を選びすぎて、話が繫がらない、緊張というか神経がピリピリになっていました。おまけに「病院に献体をする」とか、「臓器移植は可能か」とか、「お墓に入りたくない」、治療費が大変だろうから「ピアノを売却する」とか、姉自身も先々のことを慮って、いろいろな提案をしてきました。左指の麻痺が左上肢から左下肢に広がり、自力では生活が出来なくなり再入院になりました。薬を服用するためには食事をしなくてはなりませんが、食事も料理が出来なくなってからは御菓子のようなものを食べていましたし、薬が多いためにこぼれたり、昼夜逆転し訪問するといつも寝ていたりという状況でした。訪問看護やヘルパーさんのケアも提案しましたが、頑なに拒絶していました。

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