脳腫瘍の家族の交流の場 生命のメロディ 

そよかぜと申します。脳腫瘍を患ってみえるご本人を支え介護する家族のみなさんの交流が広がればと思っております。

ピアノのこと

2011-05-10 22:28:26 | 交流
姉はピアノを売却することを病床から提案してきた。入院費や治療費のことで弟に迷惑をかけたくないという一念だったと思う。姉は左手に麻痺がありピアノを弾くことは出来なくなっていた。でも私としては物凄く迷った。姉の気持ちは嬉しかったけれど、ピアノを弾くことは出来なかったけれど、ピアノ講師として自分の道を切り開いて来た姉だった。幼稚園の教員もしていたが。母の看病で実家に戻ってきた。陶芸の道を志したこともあったが、ピアノを弾くことを生業とすることになった。姉が生きている間はピアノはそのままにしてあげたかった。ピアノを弾くことは出来なくなっていたが、せめて椅子に座って、ピアノに向かって欲しかった。鍵盤に指を置いて欲しかったのである。元気よく力強く、あるいは華麗にピアノ弾き語っていた頃を思い出すのであった。その姉がピアノを手放す、そういう決意をしたのだった。ピアノを買い取ってくれる業者のチラシを見せ、迫ってきた。私は躊躇した、ずっとずっと延ばしに延ばしていた。病院の待合室、ロビィーで口論になって、看護師さんが気遣ってきてくれた。後日、ピアノの業者が来られて、ピアノは跡形もなくなった。姉が座っていたピアノ専用の椅子は暫くおいておいた。メトロノームや楽譜、ブァイオリンは残しておいた。主のいないピアノ椅子はとっても寂しそうだった。それでメトロノームを[on[にした。

最初が肝心

2011-05-06 22:47:23 | 交流
脳腫瘍、「脳に癌(がん)が発症したのだ」という認識を持った。しかも悪性の脳腫瘍、神経膠芽腫、いろいろなデータを検索しても予後ははかばかしくない。ドクターはオペの直前、悪性の脳腫瘍の可能性が高いと言われ、オペ終了後小鬢に入った肉片を見せられ、「膠芽腫」というメモ書きを渡された。ご自身でお調べになってくださいという雰囲気だった。オペ直後であり、無事に終了したという安堵感でいっぱいであり、ドクターの配意だったと思う。「もうこれはどうしようもない」という気持になりました。姉と一緒にドクターから治療についての見解を伺った。9月に最初のオペ、さらに11月に再オペ、とんでもない病気だと困惑したのを覚えている。「もうなにをしても駄目なんだ。」「最悪、年を越せない」という絶望の気持が強まった。もちろん精一杯姉を応援しようと決意は固めたものの、内心では「絶望」の想いに打ちひしがれていた。「何をやっても駄目なんだ」という気持で姉を支えるのと「なんとかしよう、いい治療方法はないのか」とドクターに迫るような気持で姉を支えるのとでは全然病に向き合う意味合いは違ってくるのは当然である。誰にでも分ることなのだが、私自身は当初はどう考えても前者だった。このスタート・ラインが不味かったように思うのである。幸い二回目のオペが成功し年を越せることになった、いや予後は悪いものとは言え、もう少しは長らえるかもしれない、それぐらいから、やっと少々は前向きに姉の病に向き合う助走路に足のつま先がかかったように思うのです。やはり最初が肝心だったと思う。もちろん誰が悪いというのではない。悪性の脳腫瘍という宣告は私にとってはそれほどの衝撃的なものだったということである。