脳腫瘍の家族の交流の場 生命のメロディ 

そよかぜと申します。脳腫瘍を患ってみえるご本人を支え介護する家族のみなさんの交流が広がればと思っております。

想いを重ね合わせ、響かせましょう 2011年5月29日

2020-05-30 17:00:00 | 交流
このブログを始めたのが2007年5月16日、5月25日現在1479日目です。4年と数日になります。2006年12月27日に姉は旅立ちました。「姉の旅立ちを決して無駄にしない」という一念からスタートしました。このブログを続けてこられたのはリンクをさせて頂いているご本人、そしてご本人を支えてみえるご家族のみなさんのお力添えによるものです。小生の拙い投稿を見るに見かねて、珠玉のコメントを寄せていただいてこのブログが今日まで続いています。リンクにご協力をいただいているみなさん、秀逸なコメントを寄せていただいているみなさんに、心より御礼を申し上げます。今、この瞬間も、ご本人に寄り添ってみえるご家族のみなさん、病に向き合ってみえるご本人、また旅立ちを見送った方々、その想いを直線に並べることはできません。想いはそれぞれであろうかと思いますが、その立場の違いよりも脳腫瘍のご本人、ご本人を支えているご家族、ご本人を支えられたご家族の共通項、「脳腫瘍という病に向き合う」という一致点を大事にしながら、その想いを交流できる場になればと願っています。どうかご家族のみなさんがお一人で抱え込むことなく、想いを吐露できる場になればと願っています。「交流の場」といいながら、いつも応援をいただき、叱咤激励されているのは小生自身であります。ブログを閉じようと思うときもあるのですが、そんな時にきまってブログにコメントが寄せられるのです。そして自分自身の最上の学びの場のひとつになっています。今後ともご支援とご協力を宜しくお願い申し上げます。想いを重ね合わせ、響かせて参りましょう。病に向き合われるご本人、とりわけご本人を支えるご家族のみなさんの背を押すものとなれば、望外の幸せです。2011年5月25日そよかぜ記

脳腫瘍という病に向き合っていきましょう。合言葉はゆっくりゆっくり

2020-02-12 22:18:30 | 交流
交流の場に集うみなさん、本年も宜しくお願いいたします。ご本人のみなさんはもちろんのこと、サポートされるご家族のみなさん、本年もささやかですが、姉の旅立ちを見送った者として、姉の介護をしながら思ったことを綴って参りたいと思います。このブログにリンクしていただいているご本人、あるいはご本人を支えるご家族の方々のブログから大いに学びつつ、生命(いのち)の重さ、尊厳というものを見つめ直していこうと思います。この場をお借りしてリンクさせていただいている方々に心より御礼を申し上げます。このブログはご本人を支えるご家族のみなさんが、特にキーパーソンになられるみなさんが、おひとりで悩まれることなく、おひとりで抱え込まれることなく、思い(想い)を出していける場になればと思っています。どうかご遠慮されることなく思い(想い)を綴っていただけたらと思います。この病は難敵です。こんなことを綴るのは恥ずかしいとか、綴っている途中で思い(想い)が纏まらなくなってきたとか、そんなご心配はご無用になさってください。思い(想い)を綴ることによって不安なお気持ちを整理することもできるかもしれません。思い(想い)を綴ることによって、お気持ちが穏やかになるかもしれません。そうすることによって「病に向き合う」準備ができるかもしれません。小生は脳腫瘍の姉の介護(ケア)をし、旅立ちを見送った者でしかありません。もちろん医療関係者ではありませんので治療についてはこれまで同様コメントはできません。ご家族のみなさんがすこしでもゆったりゆったりご本人を見守り、支えられる、それができればと思います。そして小生自身も大いに学ばせていただきたいと思います。
2010年2月12日そよかぜ記

謹賀新年

2013-01-11 23:09:51 | 交流
病院の見える風景

九階の病棟が私には見えるのだ
誰にだって見えるのだけれど
姉が病室から微笑んでいるように

陽光が眼にまぶしいときも
雨風が頬に吹きつけるときも
姉は見ていたのだろうなぁ

姉が窓から観た光景は

空が我が物顔に広がり
道路が軽快に走って
未来を担う学生たち

元気な頃は背筋を伸ばして
ベッドから眺めていたのだろう

車椅子に乗って屋上から
姉の目に映った光景は

家から車を出すと
雲間にしゃなりと病院が座っている


姉がお世話になった病院は車でなら30分で行けます。
ちょっと団地から足を伸ばしても、車を出してもよく見られます。
夜間でも病棟に照明があるので夜空にぼんやりと見えるのです。

姉の病を思い出として綴ってよいのか迷いがあります。
今、この一瞬も病に向き合われているご家族のみなさ
んに失礼であるように思います

車椅子から商品展示コーナーはどう見えるのか

2012-08-13 21:50:44 | 交流
自力歩行が難しくなって、買い物をするときは車椅子を活用することが多くなった。買い手が購入する商品を覗き込むようなケースが多くあった。健常者なら中腰になって覗き込めばなんということはないが、商品を一つ一つ手に取るのはやややっかいである。車椅子に乗っている姉からは展示ケースの商品が見にくい。もちろん介助者がどんな商品があるか説明をしたり、手に取って見せてやれば分かりやすいだろうが・・・・・。冷凍食品やいろんな商品があり、展示の方法もいろいろと工夫がされていると思いますが、車椅子に乗った姉からは商品が見えたのだろうか?もう何年も前のことですから、改善されているとは思いますが、車椅子でなくても足腰が不自由な方もみえるし、背伸びしたり、手を伸ばすのが難しい方もおみえだと思います。

脳腫瘍のご本人が想いを綴ること

2012-04-30 23:01:20 | 交流
脳腫瘍の体験者が脳腫瘍の患者をサポートするということ。

脳腫瘍の体験者というのはもちろん脳腫瘍の患者さんご自身です。その体験者(患者さん)が、「脳腫瘍」とドクターから告知された方の想いを聴かれたり、脳腫瘍のオペをされた方の想いを聴かれる、抗がん剤を服用されたり、放射線治療などを受けてみえる方々の想いを聴かれる、脳腫瘍を治療を受けられている方々の想いを聴くことが大事だと思うのです。脳腫瘍の患者さんの想いと言っても、脳腫瘍の病状や治療法に関わる不安のみならずそれは仕事のこと、家族のことなど多方面にわたるものと思います。脳腫瘍のご本人だけにしか、分らない、感じられない不安があると思うのです。そういう想いの交流が出来ればと思います。脳腫瘍を生きてみえる、その生の営みを綴ってみえるご本人のブログはご本人は意図されていなくても、脳腫瘍のご本人から寄せられるコメントへのレスポンスは「脳腫瘍の体験者が脳腫瘍の患者をサポートする」「脳腫瘍の体験者が脳腫瘍の患者さんの想いを聴く」ということになると思います。このブログで大切にしていることは脳腫瘍のご本人を支えるご家族に、ご本人を支えているご家族、あるいはこれまで支え、お別れされた家族の方々が想いを綴ること、想いを寄せることです。それはもちろん貴重なことだと思いますが、このブログでも脳腫瘍を患うご本人から貴重なコメントが寄せられています。脳腫瘍のご本人が綴られる貴重なコメントです。もちろんご本人は意識(意図)されてはいないのでしょうが、結果としては「脳腫瘍の体験者が脳腫瘍の患者をサポートする」ということになっていたり、脳腫瘍の体験者がご本人を支える家族の方をサポートするということになります。脳腫瘍のご本人が脳腫瘍のご本人の想いを聴くこと、脳腫瘍のご本人がご本人を支える家族の想いを聴くことは特別な意味があること思います。もちろん脳腫瘍の体験者というのは脳腫瘍の患者さんであり、脳腫瘍を生きられるご本人である。脳腫瘍を生きてみえるわけですから、ご無理をされず、ゆったりゆったり綴っていただければ幸いである。脳腫瘍のご本人にとっても、ご本人を支える家族にとってもとても貴重なものです。プレッシャーをかけるつもりは毛頭ありませんが、多くのことを学ばせていただいています。


コミュニケーション、心のケアと復職に向けて パンフのご案内

2012-04-21 23:02:13 | 交流
脳腫瘍と他のがん(消化器、呼吸器他)とではその症状や治療法は異なるところはあると思いますが「家族ががんになったとき 患者さんを支える6か条」「がんと心 がんと向き合う“こころのケア”」は編集・発行が国立がんセンターがん対策情報センターです。前者では4の項目に患者さんを支える家族のための6か条、5の項目に「患者さんと話をするときの3原則」が記されています。家族としてご本人と話しするとき、なかなか「普段どおりのコミュニケーション」というわけにはいきません。なかなか思い通りにはいきません。励まそうと思って、病室に足を運んでも、ご本人の顔を見るとなかなか言葉が出にくかったことはありませんか、またご本人はもちろんのこと、ご本人を支えるご家族にとっても、知らずしらずのうちにストレスが溜まって、心や体の不調をきたすことがあると思います。とてもわかりやすく記されていますのでご活用いただければ幸いです。また「がんと働く」リワークノートがNPO法人キャンサーリボンズから発行されています。「リワーク」とあるように職場復帰に向けての冊子です。リワーク準備期「職場復帰前・治療中」リワーク直後期「治療と仕事の両立」リワーク安定期「治療一段落・寛解期」と記されておりこれもご活用いただければと思います。紹介した冊子は全てパンフレットでもちろん無料です。総合病院の相談センターなどに置かれていますので是非お読みいただければと思います。

眼を開けば僕がいる。**BNCTに夢を託して** ポラリスさん

2012-01-15 22:31:47 | 交流
眼を開けば僕がいる。**BNCTに夢を託して**
悪性脳腫瘍の妻との闘病生活を最新の治験療法(BNCT)や免役療法を交えて・・・。http://blog.goo.ne.jp/dream-quijana
光尽きるまで 2011-12-01 最終投稿 (ポラリスさん)

奥様に寄り添われるポラリスさんの想いは常に具体的で行動的です。みなさんとご一緒に読み継ぎ学びたいと思います(そよかぜ)。

また明日ね☆Mの命が尽きるまで 比翼さん

2011-11-12 15:04:08 | 交流
平成22年4月…
大事な人が【脳腫瘍】になりました。
同時に【大腸癌】再発も見つかり、一年後の平成23年4月に…還らぬ人となりました。

私にとって、生きる同士…生きる糧、自分の全てでした。
彼女の軌跡を遺したい。(プロフィールより)
http://ameblo.jp/hiyoku-persona/

Mさんへの想いを気取りなく綴られる比翼さんのブログ。お寂しい想いを受けとめながら、一歩一歩、生を重ねられる、新たな人生に舵をきられる比翼さんです(そよかぜ)

姉の想いは汲み取れたのだろうか?

2011-10-23 22:22:08 | 交流
姉が一番心配していたことは「話せなくなってしまうこと」だった。「延命治療はしない」「お墓にはいるのは嫌、法事とかで貴方に迷惑がかかるから」姉と話が出来るうちは姉の想いをしっかりと受けとめて、姉の想い通りに旅出たせてやることは出来たと思う。だが姉がターミナル期に入って音声言語が出なくなり、手を握りしめても、握り返してこなくなったり、小生が言葉を発しても、頷いたり、首を振ったり、顔付きでも意思表示が出来なくなってくると、やむなく私自身が判断、選択を迫られることになる。食事介助では傾眠状態が続き、看護師さんが付きっ切りで介助はしていただくが、充分な栄養が摂れず、経管(鼻に管を通して)栄養補給をすることになった。もちろん口からも補助的に水分摂取は出来るが咀嚼、嚥下の機能は格段に低下する。ミキサー食でも辛かっただろうに、鼻から液体状の栄養補給である。姉の想いはいかばかりであったろう、「もうやめて」そんな声が聞こえてきそうであった。姉の想いは汲み取れたのであろうか・・・。

日々大切にしていること  ご本人を支える家族(サポーター)として 

2011-09-22 18:07:54 | 交流
ご本人を支えるサポーター(ご家族)の想いは悩みは深く重いものがあります。特にキーパーソンの方のそれはまた特別なものがあるものと思います。どうしようもなく焦ったり、不安で不安でたまらなくなったり、でもそういう状況があるにもかかわらず、日々ケアを重ねてみえると思います。一番大切にされていることと綴ると、何が一番と考えるのもまた大変だと思います。ご本人を支えるご家族(サポーター)として大切にされていることをどうか綴ってください。纏まっていないとか、文章になっていないとか、そういう些細なことはどうかお気にされず、お願いいたします。


茶花(saka)日記 茶花さんのブログ

2011-06-11 00:36:10 | 交流
脳腫瘍と診断され約2年、2011年3月天国に旅立った夫と共に。
お茶と花に癒されて日々の出来事を綴ります(茶花さん)
http://blog.goo.ne.jp/emi0807_2011


お辛い日々もあるかと思いますが、少々落ち着かれたというのは
ご本人〈茶花)のお言葉です。「ひきづらない」というお気持を
大切にされながら、茶花さんの心に生きるご主人に想いを寄せな
がら、新しく舵をきられた茶花さんの想いとみなさんの想いが響
きあうことを期待しています。みなさん気軽にノックしてあげて
くださいませ。(そよかぜ)

ピアノのこと

2011-05-10 22:28:26 | 交流
姉はピアノを売却することを病床から提案してきた。入院費や治療費のことで弟に迷惑をかけたくないという一念だったと思う。姉は左手に麻痺がありピアノを弾くことは出来なくなっていた。でも私としては物凄く迷った。姉の気持ちは嬉しかったけれど、ピアノを弾くことは出来なかったけれど、ピアノ講師として自分の道を切り開いて来た姉だった。幼稚園の教員もしていたが。母の看病で実家に戻ってきた。陶芸の道を志したこともあったが、ピアノを弾くことを生業とすることになった。姉が生きている間はピアノはそのままにしてあげたかった。ピアノを弾くことは出来なくなっていたが、せめて椅子に座って、ピアノに向かって欲しかった。鍵盤に指を置いて欲しかったのである。元気よく力強く、あるいは華麗にピアノ弾き語っていた頃を思い出すのであった。その姉がピアノを手放す、そういう決意をしたのだった。ピアノを買い取ってくれる業者のチラシを見せ、迫ってきた。私は躊躇した、ずっとずっと延ばしに延ばしていた。病院の待合室、ロビィーで口論になって、看護師さんが気遣ってきてくれた。後日、ピアノの業者が来られて、ピアノは跡形もなくなった。姉が座っていたピアノ専用の椅子は暫くおいておいた。メトロノームや楽譜、ブァイオリンは残しておいた。主のいないピアノ椅子はとっても寂しそうだった。それでメトロノームを[on[にした。

最初が肝心

2011-05-06 22:47:23 | 交流
脳腫瘍、「脳に癌(がん)が発症したのだ」という認識を持った。しかも悪性の脳腫瘍、神経膠芽腫、いろいろなデータを検索しても予後ははかばかしくない。ドクターはオペの直前、悪性の脳腫瘍の可能性が高いと言われ、オペ終了後小鬢に入った肉片を見せられ、「膠芽腫」というメモ書きを渡された。ご自身でお調べになってくださいという雰囲気だった。オペ直後であり、無事に終了したという安堵感でいっぱいであり、ドクターの配意だったと思う。「もうこれはどうしようもない」という気持になりました。姉と一緒にドクターから治療についての見解を伺った。9月に最初のオペ、さらに11月に再オペ、とんでもない病気だと困惑したのを覚えている。「もうなにをしても駄目なんだ。」「最悪、年を越せない」という絶望の気持が強まった。もちろん精一杯姉を応援しようと決意は固めたものの、内心では「絶望」の想いに打ちひしがれていた。「何をやっても駄目なんだ」という気持で姉を支えるのと「なんとかしよう、いい治療方法はないのか」とドクターに迫るような気持で姉を支えるのとでは全然病に向き合う意味合いは違ってくるのは当然である。誰にでも分ることなのだが、私自身は当初はどう考えても前者だった。このスタート・ラインが不味かったように思うのである。幸い二回目のオペが成功し年を越せることになった、いや予後は悪いものとは言え、もう少しは長らえるかもしれない、それぐらいから、やっと少々は前向きに姉の病に向き合う助走路に足のつま先がかかったように思うのです。やはり最初が肝心だったと思う。もちろん誰が悪いというのではない。悪性の脳腫瘍という宣告は私にとってはそれほどの衝撃的なものだったということである。