序破急

片足棺桶に突っ込みながら劇団芝居屋を主宰している爺です。
主に芝居、時々暮らしの中の出来事を書きます。

台本創り3

2006-06-06 10:40:29 | 演劇

私達劇団芝居屋は自分達の隣にある特別ではない人生模様を「覗かれる人生」劇として、分りやすく楽しんで貰える様な芝居創りを目指している。私はその為の土台としての台本制作を担当しているわけであるが、私が台本をつくる行程には常に三つの難関がある。
難関といってもその関門は自分の外側にあるのではない、もっぱら自らの内面が作り出しているのだ。
それらの関門は私の決して出来の良くなかった少年期から青年期の成長過程と大きく関わっている。そしてその期間にしっかりと身に付けた関門は私のあらゆる活動に影響を与え続けている。。
その関門の正体とは、怠け心と奇妙に屈折した功名心と自分でもどこから生まれたのか判らない自尊心である

第一の関門は怠け心である。これがなかなか手強い。
自らの手で自分の尻を叩くというのはこれは傍目で見ているほど簡単ではない。なかなか自分に厳しくはなれないのだ。
台本の構想を練っていても、実際それを文字に起こす段になればそこにズレが生じるのは当たり前なのだ。だから日常的な文字起こしの作業が私には必要なのだが、それがなかなかその気にならない。だがこれにも弱点がある。基本的な構想が決り、腹が決まって、晴れ渡った朝を迎える事ができれば第一の関門は突破だ。書きたい心が動き出す。

次に現れるのが功名心である。大きく言えば世間、対象を絞れば演劇界に対するええ格好しいの心がムクムクと立ち上がってくるのだ。
それらはこれから創る台本の方向を社会性や文学性へ誘う。
「世の中にはスキャンダラスな事件に満ち溢れているぞ」
「もっと人間の本質に迫るものを書くべきだ」
当然である。
表現というものは現実社会を無視はできないしその影響から免れ得ないものではある。しかしそれを主体にする事は私の劇団芝居屋を立ち上げた主旨とは違うのだ。また、それらを引き受けるだけの能力は私にはない。私の芝居は自分の足元を掘って創っていくものだ。私自身の人生の中で出逢った人々との心の交流が材料なのだ。
この様に自問自答の時間が繰り返される。やがてその種の才能のなさに気付き功名心は退散する。

最後の関門が自尊心。
これは台本創りの言葉を置く過程に現れ、私を罵倒する。
「なんだその程度か」
「もっと気の利いた言葉を考えられないのか」
私のその言葉の出どこはわかっているのだ、裏返しの劣等感から出ている事は。

この様にして私の台本創りはなされてきた。この事は書いた台本の数だけ繰返されてきたしこれからもそうであろう。
そしてこの関門は決して慣れる事はなく何時も深刻なのだ。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿