続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『泳ぐ犬』

2015-08-24 06:15:33 | 美術ノート
 ピント耳を立てた犬の顔、頭部半分ほどが水流から覗いている。犬は鉄、水(液体)は、角材である。

 鉄という素材は酸化され、やがて錆びて形を失う循環をたどる。そのプロセスを形に留める行為には非日常を垣間見せる空間が在るという。
 鉄(金属)は遷移元素であり、その形態は変化する。作家は「水と鉄が等しい」と考えることから彫刻を始めるとコメントしているらしいが鉄の比重は7.8もあり、物質的には反発している。
 それを等しいと考える…確かに流動性は認められる。しかし、水は自然だけれど、鉄の場合は人為的加工のプロセスにおいての現象である。交じり合うことはないが、鉄イオンは血中、つまり生物体の中に溶けていることも確かである。

 水は個体としての氷はあるが、0℃以上において形を留めることはない。水は三態を可能とするが、鉄において空中を浮遊するなどとは考えにくい。鉄の雨…もちろん宇宙から隕石という形で降ってくることはあり、鉄が宙に浮いているという状態を否定することは出来ない。

 水と鉄は等しいと考える出発点は、鉄が熱せられその流動性を確認した出来事が起点になっているという。この接点、水という想念は、鉄によって固定化しうるという確信が製作を促したのかもしれない。


『泳ぐ犬』という発想。
 犬が泳ぐというのは常態ではない。むしろ状態に危機感を感じ、闘っているとさえいえる。まして泳ぐという水(液体)は古い角材であり、束縛のイメージがある。泳ぐと銘打っているから、泳いでいるのだという認識を抱くが、言葉を外せば一種の拘束とさえ見えてくる。しかし、泳いでいるのはあくまで水なのだという(泳ぐ=液体)の観念を想定し、泳ぐ犬を認識可能とするのである。
 相の変化ではない、実態の質的変換としての光景と換言してもいいかもしれない。質が循環するという考えは心象風景に他ならないのではないか。

犬は泳ぐという状態から脱したいと、こちらに向かっているのではないか。泳ぎを楽しむことはあるかもしれないが必ずしも自由ではない。
 犬の向かう先には不自由からの脱出があり、解放への突進が期待できる。また、着地を求める泳ぎをストップすれば、溺れてしまう。不安定な状態/呼吸を静かに受け止めたこの作品の前で、力走ならぬ力泳を見つめた。

 作家は、言葉・素材・イメージ・形体に、一つの連続性を持たせている。
「水と鉄が等しい」という前提条件は、不条理である。不条理を条理として彫刻という仕事の世界を設定したのである。質的変換、空間の変移を試みて世界を凝視している。

 見えないものを見せるために苦慮している。たとえば対象との位置関係における距離感、空気の流動などを、自分という立ち位置から測る。物理的な距離を精神的な距離に変換するためにはオブジェそのものを鑑賞者の眼差しからずらさなくてはならない。

「水と鉄は等しい」という強引な論理は、作家の思考の入口である。ここを踏まえると作家の意志が透けて見えてくる。作品は鑑賞者の反発と合意を越えたところに在るのかもしれない。

 泳ぐ犬は作家自身の化身であり、こちらの自分と近づいてくる犬との対峙にほかならない。犬は視覚・聴覚・身体性をもってこちらを見つめている。こちらもまた、視覚・聴覚・身体性を持って見つめ返す。
 こちらに向かってくるという犯しがたい雰囲気はきわめて写実的に鑑賞者に迫ってくる。《犬と鑑賞者の関係》ー《鉄と角材の関係》における緊張感、内在する正体を考えたい。
 時空は常に振動し、世界は揺れている。


(写真は神奈川県立近代美術館/『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

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