わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

風呂上りにスコール

2010-09-20 22:00:00 | わしやま音楽祭VOL.11
お届けするのは

福山雅治「Squall」

ちょうど一年前の「わしやま音楽祭Vol.3」で、松本英子Verをアップしましたが、今回はこの曲を手がけた本人によるセルフカバーをアップしました。

この曲は、本人主演のTVドラマ「パーフェクトラブ」の挿入歌(主題歌はGLAY「ここではないどこか」)として、本人作詞作曲、音楽プロデュースで、1999年9月に松本英子Verがリリースし、オリコンチャートのベスト10内に入るヒットとなり、1999年11月にシングル「HEAVEN」と両A面としてリリース、初チャートインした時は、当時勢いのあった宇多田ヒカル、モーニング娘。内メンバーで結成したプッチモニに上位を阻まれていたが、チャート5週目で首位になり、2000年度オリコン年間チャートでは21位を記録し、次シングル「桜坂」では最大のヒットを出すこととなる。

今年デビュー20年を迎え、ボーカリスト、作詞、作曲、音楽プロデュースなどの音楽活動でなく、俳優活動、写真活動、そして国民に支持を受け、泣く子も黙る好感度の強い福山さんですが、

生い立ち・エピソード・デビューまで眺めると

1969年長崎県生まれで、

出生時の体重は4000g強の巨大児であった。

幼稚園の頃は、女の子に声をかけられただけで泣き出すほど内気だった。

小学生の頃、空手を習っていたため腕っ節が強く、友達と一緒になって他のクラスの子と喧
嘩したり、授業中に友達と2人で失踪するなどして、よく先生に叱られていた。

4年生の頃、地元のソフトボールチームに入団。エースピッチャーとして活躍するが、右肩を故障してしまう。家計が苦しかったため、5,6年生の頃からアルバイト(新聞配達)をしていた。

小学6年生のころ、水泳教室に通っていた。しかし、やる気がなくてすぐやめてしまった。
子供の頃は今のようなシンガーソングライターとしての成功は無理だと思い、音楽の教師になりたかったらしいが家庭の状況(金銭面)から断念した。

父親が被爆者なので「自身は被爆二世である」と発言したことがある。2009年8月9日の『福山雅治のSUZUKI TALKING F.M.』ではその日が長崎原爆の日であることからこの事に触れ、「父親はもろに被爆した。母親も厳密に言えば被爆していることになり、僕は被爆2世ということになる」と語っている。

中学生の頃、サッカー部に入部しようと思っていたが、兄から吹奏楽部に誘われ入部。ホルンを担当し、部長も務めた。

兄の影響でギターを弾き始め、2年生の頃、友人とバンドを結成。卒業式前日に、学校の体育館にて最初で最後のライブを行う。

それとは別に、兄ともバンド“LAR”を組んで、THE MODS、A.R.B.などのコピーをしていた(兄はドラム、福山はギター)。

当時、高校に進学する気はなく、卒業したら東京に行くつもりであったが、周囲がみんな高校に進学をするということに気がつき、長崎工業高校に進学する。ちなみに高校のときは茶道部に所属していた。入った理由は『お菓子が食べられるから』。

近くの女子校でファンクラブが作られるほど人気があり、バスで学校に通っていたため“バス停の君”と呼ばれていたという。

浜田省吾、サンハウス、THE MODS、A.R.B.、SION、ブルース・スプリングスティーン らの影響を受けた。デビューアルバム『伝言』は、福山本人の希望もあって、A.R.B.のギタリスト白浜久のバックアップを得て制作されている。また、SIONに関しては、「SORRY BABY」をカバーしたり、シングル『たまには自分を褒めてやろう』で共演するなどしている。

学生時代からラジオを愛聴していた。『プレゼントアワー』という、長崎のローカルAM放送局NBCラジオが日曜深夜に放送していた番組のリスナーだった。在学校名や実名をあげて個人の情報を依頼・提供し合うというコーナーがあり、自分の名前があがらないかと毎週楽しみに聴いていたが、結局高校を卒業するまで名前が読み上げられることはなかった。

高校卒業後、父親が他界しており、兄も自衛隊に入隊していたため、母親を長崎にひとり残して東京に行くことができず、長崎で就職する。自宅から徒歩5分で、学科試験がないという理由で、電機会社(システック井上)の営業職に就くが、仕事に身が入らず、営業で会社を出ると、海岸に車をとめて毎日文化放送の『吉田照美のやる気MANMAN!』を聴いていたという。

就職して数ヶ月後、音楽への未練が断ち切れず1987年8月31日付けで会社を辞めて上京することを決意。初任給で購入した400ccのバイクを売却し、20万円を手にする。

会社を辞めた日、母親に、会社を辞めて東京に行くことを伝えると、あっさり承諾された(実は、母親は福山が辞表を書いていたことを知っていたため、あっさり承諾したのだという)。

1987年9月の夕方、上京する時に会社の先輩、高校時代の同級生、当時の彼女が長崎駅に見送りにやってきた。上京する本当の目的を周囲の人間に恥ずかしくて言えなかったので、古着屋になると言って出て来たという。長崎駅から寝台に乗って上京。当時、福山は20万円で半年間生活出来ると思っていたらしい。

(高校の3年間同じクラスだった)同級生が先に上京していたため、上京の一週間前に連絡を入れ、同級生の家に居候させてもらう。ピザ屋の配達、日雇いの運送屋のアルバイトを経て、近所の材木屋に勤め、ようやく生活が落ち着く。

1987年秋、その当時、たまたま見ていたテレビ番組『美少女学園』の中で、“アミューズ10ムービーズオーディション”の告知を見て、俳優志望ではないのにもかかわらず、オーディションを受けることを決意、居候先の同級生に写真を撮ってもらい応募する。電話もなかったので、アミューズからの連絡はすべて、大家さんを通して郵便物がくるようになっていたという。

オーディションの面接で、特技を聞かれた際、「材木担ぎ」と答え、泉谷しげるの「春夏秋冬」をギターの弾き語りで披露する。最終選考の詳細を告げる連絡がなかなか来なかったため、落選したと思い、落ち込んだ福山は最終選考のある日、気分転換に車でドライブへ出かけるが、16号線のど真ん中で車のマフラーが落ちてしまい、家へ引き返す。自宅前でマフラーを取り付けているときにアミューズから「至急連絡されたし」の電報が届き、急いでオーディション会場へ向かい「春夏秋冬」を弾き語りし、見事合格する。

オーディション合格後、養成契約期間ということで一年間に3万円という給料を提示される。都心に引っ越さなければならなかったため材木屋のアルバイトを辞める。この材木屋は強く思い出に残っているようで、現在でもラジオで話すことがある。

上京当時のバイト先のとあるバーでゴミ出しの際に発見した泥酔状態の女性を、自宅へ拾って帰ったことがある。しかし、後に「まあ、嘘ですけどね」と冗談を言っている。

AVは買わなくてもインターネットでサンプル動画を観るだけで十分だという。最近ほとんど観ていないそうだが、AV女優のRioが好み。魂のラジオにて、リスナーから「Rioの握手会に参加した際、福山さんがあなたのことをよくラジオで話しているので来ました、と言ったら、すごく喜んでいました」というメールを受け取り、「気が利く!でかした!」と大喜びした。

アミューズオーディションに合格し、芸能界入りするも、初のライブは観客数0だったそうで、今考えるとすごい成長をして、風貌も40代に入っても、20代でも通用できるほど、20代の有名人と肩並べている「カッコイイ」の粋をすでに超えていて「最強変態者」とも言えるレベル、今は、大河ドラマ「龍馬伝」で主役の坂本龍馬を演じていて、音楽に集中すると思ったら、老若男女観る大河の大役、この世界が好きで、結婚しない理由がわかる気がするね・・・

来年あたり桜井さんから呼び出しで「ap BANK fes」に出そうな気がするね・・・シークレットで。



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