わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

涙が知らず溢れてくるのさ

2011-03-21 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

加藤和彦と北山修「あの素晴らしい愛をもう一度」


本日はトノバンこと加藤和彦さんのお誕生日ということでアップしました。

「トノバン」という愛称で呼ばれることもあるが、これはライブでドノヴァンの楽曲をカバーするなどしたことに由来する。


そんな平野レミさん(おたんじょうびおめでとう)と同じ潜在能力の彼ですが、


1947年、京都市伏見区生まれ。生後すぐに神奈川県鎌倉市に移り、鎌倉と逗子市で小学校4年まで育つ。その後1年間京都で、その後は高校卒業まで東京都で育つ。

ボブ・ディランの「Don't Think Twice, It's All Right」 を聞いた影響でギターを始める。

東京都立竹台高等学校卒業後、仏師だった祖父の後を継ぐ気持ち半分で京都市伏見区の実家に近い仏教系大学龍谷大学に入学。アマチュアフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念に制作した自費製作アルバム(インディーズではない。)『ハレンチ(破廉恥)・ザ・フォーク・クルセダーズ』中のオリジナル曲「帰って来たヨッパライ」に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれる。加藤は難色を示したが、北山修による毎朝の説得を受け入れ、1年限りの約束でプロの世界に入った。

シングル2作目に予定していた「イムジン河」が発売中止にされた。

「水虫の唄」(作詞・作曲:山田進一、補作詞:足柄金太、補作曲:河田藤作) ザ・フォーク・クルセダーズが1968年7月1日にアルバム『紀元弐阡年』の先行シングルとして発売した。彼らは曲に合わせていろいろな名前を使い分け、このシングルは「ザ・ズートルビー」という名前で発表した。

フォーク・クルセダーズ解散後、愛称「トノバン」に現されるように、ドノヴァンの影響を色濃く漂わせた楽曲も垣間見える(初期のソロ活動では、イベントで当時より20年近く日本で未発売だったドノヴァンのアルバム『H.M.S. Donovan』中の曲をカヴァーしたりもしていた)。この時期、頻繁にロンドンと東京とを行き来した。自ら本格的な料理を作る事を好んだ。

1971年には「あの素晴しい愛をもう一度」を、作詞・ボーカル(デュエット)を担当した北山修との連名で発売した。

その後、当時の妻・福井ミカをボーカルにしたサディスティック・ミカ・バンドを結成。ロックバンドによくあるグループ編成の形態ではあるが、そのサウンドもロンドンポップ、グラム・ロック、レゲエから、今でいう「ワールド・ミュージック」、琉球音階の導入など、実験精神に溢れたもので加藤の先取の気質がよく顕われている。クリス・トーマスプロデュースによるアルバム『黒船』を発表後、ロキシー・ミュージックのオープニング・アクト(前座)としてイギリスツアーを敢行するが、福井ミカとの離婚をきっかけに解散(ミカ・バンドは、1989年に、新ヴォーカリストに桐島かれんを迎え再結成し、のちに解散コンサートを行った。その後に、三代目ボーカルとして木村カエラを迎え、サディスティック・ミカエラ・バンドとして再々結成)。

1977年に安井かずみと再婚。1994年に死別するまで、安井との作詞作曲コンビで数多くの作品を発表した。1980年代は「あの頃、マリー・ローランサン」などを発表。

1990年代からは歌舞伎音楽を手がけ、「歌舞伎史上初めて洋楽オーケストラを歌舞伎に取り入れた」と市川猿之助 (3代目)に言わしめた。この縁から、後の「ザ・フォーク・クルセダーズ新結成解散コンサート」は市川猿之助と共に歌舞伎の口上で幕を開けることになる。

1996年、フジテレビ系『ポンキッキーズ』挿入歌として西田ひかるとのデュエット曲「メロディー」を発表。

1995年中丸三千絵と再々婚するが、2000年に離婚。

2005年発売のプレイステーション2用ゲームソフト『天外魔境III NAMIDA』の音楽を担当。指揮に佐渡裕、演奏に新日本フィルハーモニー交響楽団、歌手にサラ・ブライトマンを起用した。

2007年に坂崎幸之助とのユニット、和幸(かずこう)を結成。2007年・2009年にアルバムリリース、ライブを行った。

「同じことは二度とやらない」をモットーとしており、サディスティックミカバンドやフォークルを新結成することがあっても過去とは全く異なるアプローチで臨んでいる(フォークルは「再結成」ではなく、「新結成」であると加藤は語っている)。また、サディスティック・ユーミン・バンドなる企画もあった。

2009年10月17日、首吊りによる自殺で他界。享年63(満62歳没)。最近になって鬱病を患い、死の直前にはそれが悪化していたという。

公の場では2009年10月2日、東京国際フォーラムでの松任谷由実のライブにゲストとして登場したのが最後であった。

『和幸』としてのステージは2009年9月20日『南こうせつサマーピクニックフォーエバーinつま恋』でのゲスト出演がラストステージとなった

今のJ-POPシーンにおいて、ジャンル総称して、フォークソング、ロックなど彼の残した功績は大きい。


で、シンガーソングライターとして、以上の楽譜提供を行っている。


アグネス・チャン「妖精の詩」「いじわる雨の日曜日」「雪」「TWINKY」「ふたりの日記」「二人だけのコンサート」「It's a beautiful day」「雨の月曜日」「愛のハーモニー」「愛がみつかりそう」(作曲)
浅香唯「Stay with me」(作曲)
麻倉未稀「マジカル・サマー」(作曲)
アンドレ・カンドレ「花にさえ鳥にさえ」(作曲)
飯島真理「愛・おぼえていますか」(作曲)
石川セリ「ジャングル」(作曲)
石川秀美「あなたとハプニング」「今・愛になる」「恋はエゴイスト」「しあわせが半分だけ」「振られた気分」(作曲)
石野真子「コートダジュールで」「幸せの振りして」「光の中で振り向くわたし」「ミモザの季節」「柔らかい夜」(作曲)
泉谷しげる「春夏秋冬」(プロデュース・アレンジ)
伊藤かずえ「ぼっくん!キミがいなきゃ」「ジュリエットにさせて」(作曲)
伊藤つかさ「夕暮れ物語」「アリスの恋人」「少女のままで」「ノウ!ノウ!ガール」「ミスターキャロル・マイアリス」「野外コンサート」「夢の中のアリス」「四つ葉のクローバー」「リボン飾りのXマスプレゼント」「わたしの友だち」(作曲)
いとうゆうこ「がんじがらめ」「フォークソング」(プロデュース・作曲・アレンジ)
稲垣潤一「ブルージン・ピエロ」「愛のスーパーマジック」「エンドレス・ラブ」(作曲)
岩崎良美「愛してモナムール」「どきどき旅行」「私の恋は印象派」「マルガリータガール」「カメリアの花咲く丘」「初めてのミント・カクテル」(作曲)
Wink「いつまでも好きでいたくて」(作曲)
大原麗子「花火」(作曲)
岡崎友紀「ドゥー・ユー・リメンバー・ミー」(プロデュース・作曲・アレンジ)
小野和子「不思議な日」(作曲)
オフコース「夜明けを告げに」(作曲)
柏原芳恵「恋のD-DAY」「ショックかくして大人する」(作曲)
鹿取容子「どうして欲しいの…」「思い出を作りながら…」(作曲)
かまやつひろし「サンフランシスコ」「三人組」(作曲)
加山雄三「ちょっとだけストレンジャー」「愛と未来のために」(作曲)
神田正輝「アーバン旅情」「思い出のキーラルゴ」「サンセット物語」「時にセンチメンタル」「バラと新聞」「半ぱでロンリー」「BLUE MOONLIGHT」(作曲)
熊谷真美「グロリア」(作曲)
倉沢淳美「絶対好きと云うために」(作曲)
コスモス「冬の日記」(作曲)
小林麻美「微熱」(作曲)
酒井美紀「あなたの声が聞こえる」「乙女の祈り」(作曲)
沢口靖子「ひとりうす化粧」「夢からたち」(作曲)
沢田聖子「卒業」「あなたへのバースディ・カード」「ひとりぼっちの昼下り」(作曲)
シブがき隊「君にジーレジーレ」「地球最初の嵐のように」「ラブ・チェイン」(作曲)
シモンズ「思い出の指輪」(作曲)
少年隊「ヴギウギ・キャット!」「ペパーミント夢物語」「APRIL HURRICANE」(作曲)
J-FRIENDS「届くといいね just wishing」(作曲)
高岡早紀「真夜中のサブリナ」「眠れぬ森の美女」「悲しみよこんにちは」「薔薇と毒薬」「フリフリ天国」「セザンヌ美術館」「M」「カ・ル・ナ・バ・ル」「寒い国のジゴロ」「ペテン師バッドムーン」「哀しいサーカス」「哀しみのヴェニス」「ジプシーを踊ろう」「女優マリアンヌ」「太陽はひとりぼっち」「天使失格」「パーティーはパニック」「×××のデザート」「不思議の森のアリス」「プリマヴェーラ」「NON!NON!NON!」「ROSE」「SLEEP WALKER」「DANCING IN THE SUNSET」「見知らぬ彼女への伝言」(作曲)
高田みづえ「愛のイマジネーション」「真夜中のテレパシー」「DOMO DOMO」(作曲)
高橋真美「もう少しだけ」「片想いのX’mas」(作曲)
高橋ユキヒロ「La Rosa」(作曲)
高見知佳「ジャングル・ラブ」「ボーイ・フレンド」「今夜がその時」「CALL ME TONIGHT」(作曲)
多岐川裕美「女ごころはボサノバ」「マイタイとため息と」(作曲)
竹内まりや「戻っておいで私の時間」「ドリーム・オブ・ユー~レモンライムの青い風」「おかしな二人」(作曲)「不思議なピーチパイ」(プロデュース・作曲・アレンジ)
武田久美子「噂になってもいい」「林檎が落ちた日」(作曲)
田原俊彦「愛のブロンズ像」「君はイエスタデー」「禁じられた朝」「クラブ☆パッショナータ」「SWEET ジャクリーヌ」(作曲)
千葉裕「西伊豆海岸」「旅の前夜」(作曲)
チッチとサリー「チッチとサリー」(プロデュース・作曲。サリー役でデュエット。チッチ役は一般公募で選ばれた翁玖美子)
トワ・エ・モワ「初恋の人に似ている」(作曲)
中井貴一「あの頃、青春のど真ん中」「思い出のアンティックチェア」「俺だけのマドンナ」「俺たちのLOVE SONG」「君はトロピカル」「中古のジャガー君とアネモネ」「二人だけのラブ・コール」「リタ・デジャネイロ」(作曲)
中川勝彦「白いアンティック・ドレス」「ナンシー・Chang!」「メロメロメロウ」「PLEASE UNDERSTAND ME(作曲)
中島はるみ「恋のアンテナ・右廻り」(作曲)
中山ラビ「甘い薬を口に含んで」(プロデュース・作曲・アレンジ)
西田ひかる「私のNO.1〜You're the only one〜」「メロディ」「なくしたくないのあなたを」「好きで・・・好きで・・・好きなの」「光の天使」「I'M ALRIGHT〜優しくなりたい〜」(作曲)
西村知美「わたし・ドリーミング」「イメージの中で」「雲の形・ハートしてる」「この愛クリスタル」(作曲)
萩原健一「ブルージンの子守唄」「少年の魂」(作曲)
原田知世「カトレアホテルは雨でした」「午前10時の誘惑」(作曲)
樋口可南子「噂のランデヴー」「別れの肌ざわり」(作曲)
兵藤まこ「風の中の少女」(作曲)
広田玲央名「だいじょうぶマイ・フレンド」(作曲)
ベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」(プロデュース・作曲・アレンジ)
ブレッド&バター「夢がとぶ」「ONE AFTERNOON IN THE BAR」(作曲)
増田恵子「アクトレス」「ひとり暮らしの恋」「ラブマジック」(作曲)
松任谷由実「黄色いロールスロイス」(プロデュース・アレンジ)
真鍋ちえみ「ロマンティックしましょう」「ハートがピッピッ」(作曲)
宮崎美子「土曜日のパーティー」「ひとりぼっちのビューティフル・デイ」「わたしの気分はサングリア」「わたしのメモリー」(作曲)
森尾由美「ガラスの箱」「9時までCHA CHA CHA」「恋レジスタンス」「ショコラとレコード」「少女たちはどこへ行った」「だからタッチ・ミー」「だんだんジェラシー」「ちょっとフランス」「優しいギャングスター」「夢の宮殿」「夢チャイナドール」「EUROMANTIQUE」(作曲)
森下恵理「ブルージン・ボーイ!」「わたしは街のバレリーナ」「サマータイムグラフィティ」「中古のムスタング」「秘密のダイアリー」「ふられて・フー・フー」「ちょっぴりボーイフレンド」「」「KISS ME TONIGHT」(作曲)
森進一「夢・ステファニー」(作曲・アレンジ)
森山良子「遠い遠いあの野原」(プロデュース・作曲・アレンジ)
薬師丸ひろ子「不思議よセ・ラ・ヴィ」(作曲)
吉田拓郎「ロンリー・ストリート・キャフェ」(プロデュース・作曲・アレンジ)「結婚しようよ」(プロデュース・アレンジ)
吉田真梨「恋の街をかえして」「みんな愛されるため」(作曲)
若林志穂「テレフォン・キッス」「夏のバルコニー」「恋の1・2・3」(作曲)
ジュディ・オング 「愛のめぐり逢い」(作曲)


この曲は、作詞北山修、作曲加藤和彦で、

1970年7月30日、加藤の光子(ミカ)夫人との結婚祝いとして北山が詞を贈り、その年のクリスマスに加藤が曲を付けて夫人にプレゼントした。

それからは北山、加藤とその仲間内での愛唱歌となっていたが、1971年になり加藤と北山が25才を迎えるということで仲間内から「記念にレコードを出したらどうか」という話が持ち上がり、加藤の了承によりレコード化となった。

後年NHK-BSで坂崎幸之助と久しぶりにギターを抱えて出演したときに「15分でできた」と加藤自身が発言している。

この曲のオリジナル録音(1971年)のきっかけは、東芝音楽工業がフォークルの再結成を図って加藤・北山の両人にはたらきかけたものであるとされる。当時、フォークルの再結成はあり得ないと明言していた2人は、ジャケットでもカメラを全く無視している。これには東芝に対する抗議の意味を込めていると加藤・北山ともに当時のラジオ番組で語った。

オリジナルヴァージョンでは加藤による変則スリーフィンガーが展開されるが、「北山修25ばあすでい・こんさあと」に於いては「弾きながら歌える自信がない」とのことで通常のスリーフィンガーで演奏された。

第3番の歌詞の「あの時風が流れても変わらないと言った二人の」という一節は、「北山修青春詞歌集『ピエロの唄』」(角川書店)では「あの時星になりたいと夜明けまで泣いた二人の」となっている。ただし、この歌詞で歌われたことはない。


その後の北山さんは、1972年、京都府立医科大学卒業。札幌医科大学内科研修生として2年間勤務した後、ロンドンのモーズレイ病院およびロンドン大学精神医学研究所にて2年間研修。

1980年、北山医院(北山研究所を経て、現・南青山心理相談室)を開設。精神分析家・心理療法家として活動する。

1991年、九州大学教育学部助教授に就任。1994年、同教授。1998年、九州大学大学院人間環境学研究院教授。2001年より同大学院医学研究院教授を兼任。2010年3月、九州大学を定年退職。

2010年4月より南青山心理相談室顧問。

『みんなの精神科』『みんなの深層心理分析』(講談社+α文庫)、『劇的な精神分析入門』(みすず書房)など著書多数。特に、イギリスの小児科医で、後に小児精神分析家に転進したドナルド・ウィニコット(Donald Winnicott)に関する研究では、本邦の第一人者。


2009年は忌野清志郎、マイケル・ジャクソンなど音楽界において重鎮たちが天国に行ってしまった波乱な年となり、加藤さんも同様な状態になったのも大きい。


2009年加藤さんが死去した時の北山さんのコメント。

朝日新聞と産経新聞に「きたやまおさむ」名義で追悼コメントを寄せ、それらの中で「すべてが一流のプレーヤー」と評し、一人の人物の中に音楽家と演出家という、2つのあり得ない役割が両立できるがゆえに、なかなか自身は満足が得られない天才の不幸を指摘。老後をともに過ごす楽しみを失った友人として、また病を食い止めるべき精神科医としての無念を記している。10月19日に関係者だけで行われた加藤の密葬では出棺前に挨拶し、「加藤君には2人の人間がいた。1人は楽しく明るく前向き。もう1人は厳しく完全主義で怒ると怖い人。今回はそのもう1人が自分を殺してしまったんだと思う。曲を制作する時は人の意見も聞いてくれたんだけど、最後の幕引きでみんなの意見を聞いてくれなかった」と述べた。

この曲でのYouTubeよりtetu492002さんのコメント。

「この歌を訊くたびに、胸が締め付けられる。初々しかったあの頃が­あったのに、どうして今はすれっからしになってしまったのか。あ­の頃に戻ってもう一度やり直したい。加藤さん、ありがとうござい­ます。心より感謝申し上げます。団塊の世代として、理由はどうあ­れ、生き抜いて欲しかった。生き抜いた者のみが勝ち得る笑みを共­有したかった。」

今震災で多くの犠牲者、不自由な生活を送っている人たちが想像以上の状態で出てきて、連日の報道で積み重ねる形で、周りの雰囲気を暗くし、その地点で立ち止まり失望状態に陥っている人もいるわけで、この曲を通じ、彼らのために生き抜き、みんなの力で「あの素晴しい愛をもう一度」で再建していきましょう!


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