夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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モーセのような預言者

2012-11-24 18:24:10 | 日曜日のメッセージ
 申命記18章15~22節。本日の申命記で中心聖句となっているのは、15節の次の言葉である。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」。
 預言者というと、我々はすぐにイザヤやエレミヤなどの後代の預言者を思い起こすが、ここで分かることは聖書ではすでにモーセが預言者として立てられているということである。そして、この「よげんしゃ」という言葉には若干注意が必要だ。この言葉には二つの意味がある。一つは「普通なら見通せない未来の出来事・有様を、こうなると言うこと」である。これは文字で書けば予め語る者という意味の予言者である。しかし、聖書の言う「よげんしゃ」というのは、必ずしも未来の出来事を見通す人ということではない。そういう面もあるが、むしろ神の言葉(託宣や指示)を受けてそれを民に語るというのが聖書の言う「よげんしゃ」の特色である。そこで、聖書では神の言葉を預かると書いて「預言者」と言っているのである。そういう意味でモーセも預言者であり、今後モーセのような預言者が引き続き起こされると約束しているのだ。
 そして、我々はここでこの約束がどういう脈絡で語られているかに注目する必要がある。それは異教の習慣に見られる占いや口寄せに頼る危険から民を免れさせるためであったということである。本日の申命記の個所はその直前の18章9節から14節で、まずこれからカナンの土地に入っていくに当たって、そこで行われる習慣、神々や霊に伺いを立てる占いや口寄せの類に心を寄せてはならないと厳しく警告されている。そして、それらの代わりにイスラエルにはどういう助けが与えられるかということで、「モーセのような預言者」の出現が約束されるのである。
 人間の生活というのは幸福なときばかりではない。健康に恵まれ、仕事も順調にいき、もめ事や争いに悩まされることもない。そういうことばかりならいいが、実際の人生には予想のつかない悩みや困難が付きまとう。そこで、誰でも不安を抱えながらの毎日を送らねばならないのである。そして、その不安の度合いが強まってくると、人々はその土地その土地にある様々の迷信に心を寄せるようになる。これはいつの時代にも見られる現象だった。現代の日本でも同じである。申命記は18章9節以下のところで、そういう迷信を可能な限り列挙して警戒を呼びかけている。ここには大きく分けて、人身犠牲、占い、巫術といったものが挙げられている。
 18章10節の「自分の息子、娘に火の中を通らせる者」というのは、聞き慣れないことだが、12章31節にあった「その息子、娘さえも火に投じて神々にささげる」ということを指しているのではないかと思う。神に伺いを立てるに際していけにえとして人身を捧げるのである。子供を死に至らしめるような習慣である。これは世界中に類例が見られ、いわゆる人身御供である。聖書はこれは忌まわしい習慣であると言っている。
 また、「占い師、卜者、易者」というのは人為的な工夫で災の原因とか将来のことを知る方法であり、「呪術師、呪文を唱える者」いわゆる「まじない」というのは超自然的な力を操作することで悪霊の祟りを除去する儀礼である。実に様々のものが世界各地で行われてきた。
 それから、「口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者」というのは、総称すれば巫術と言われるものである。日本でも恐山のイタコのような形で今も存在している。これは死者の霊が霊能者に乗り移り、その人を通して霊界の秘密を語るというものである。
 これは昔話ではない。これだけ科学が発達した現代でも、人々はなお様々の占い、まじない、オカルト的なものに心を寄せているのを見ることができるのではないだろうか。星占い、手相、易学の類は今も巷の話題の一つになっている。またそういうことを売り物にしたいわゆる新々宗教も栄えているのである。やはり、人々は生きていく上で自分だけでは処理できない不安を抱えているからであろう。占いなどで自分の運勢を探り、スピリチュアルカウンセラーの超自然的な力を頼り、少しでも安心して生活したいのである。不安が強まれば、藁をもつかむ思いで、ますますそういうものに頼ってしまうのである。
 しかし、聖書がこういう習慣に対して徹底した否を述べていることを学びたい。申命記もまさにそうなのである。ここでも、モーセは「これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる」「あなたの神はそうすることをお許しにならない」と言っている。しかも、この戒めは、ただイスラエルがそうすることを許さないということだけではない。他の国民がそういう方法をとることも、主は快く思わないのであって、「これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう」(12節)とも言うのである。
 では、なぜここまで徹底して、主はこうした習慣を嫌われるのだろうか。それはこうした習慣を良く思い巡らしてみると分かるのである。こういう習慣は、神様の領域に人間が勝手に踏み込もうとするものだからだ。もっと簡単に言えば神様を利用しようとするものだ。神様というお方は人間をはるかに超えた聖なる主権者である。人間に急き立てられて御心を明かしたり、子供だましのような方法に乗せられて御心を示したりするようなお方ではない。占いとか呪いとか巫術と言われるものは、人間が勝手に定めた方法で神の秘密を聞き出そうと試みるものである。神を操ろうとするものだ。こんな神様を馬鹿にしたことはない。人間の都合が優先している。神より人間が上に立ってしまっている。とんでもない冒涜なのだ。
 申命記がここで言っていることは、それよりもむしろ神様は御自分の方から、必要に応じて預言者を立て、その預言者を通して人々に御心を告げてくださるということだ。その言葉を待ち、その言葉を受けとって生きる道を定めるべきなのである。御言葉を道のともしびとするということだ。このことが、神の民イスラエルに許された唯一の生き方だった。このことを申命記は強くカナン入国前のイスラエルに語っている。御言葉以外のものに頼り始めたら、イスラエルの信仰は崩れてしまうのである。神が語り、民は聞く。そしてあくまでも神の言葉に従って生きる。この関係が守られなければ、約束の地でイスラエルは自分の使命を果たせないのである。申命記はここでイスラエルが神の民として御言葉に徹底すべきことを教え諭している。

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