夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

アブラハムの信仰

2012-11-17 15:45:44 | 日曜日のメッセージ
 創世記13章1~18節。アブラハムと甥のロトはついに別の道を歩まねばならなくなった。そして、ここからがよく知られる場面だ。驚くべきことに、アブラハムは年長者の権利を捨ててロトに優先権を譲っている。「右に行くか左に行くか、さあまずお前が選びなさい」と言っている。これはすぐ前の章で、身の安全のために嘘をついたあの臆病なアブラハムとは随分違っている。彼の心境を分析することが許されるならば、これはエジプトでの苦い経験を踏まえた新しい態度だと言える。自分を守るために嘘をついたかつての生き方の反省、またそういう自分の咎を罰することもなく赦してくださった神への感謝が、こういう態度をとらせているのではないだろうか。大きな恵み、豊かな赦しを受けた者は、新しい生き方によってその恩寵に応えるようになる。相変わらず自分本位であったり、他者を押しのけるような生き方ができない。アブラハムは苦い失敗の体験をとおして、今ようやく神の民にふさわしい生き方にたどり着いたのである。
 それに対してロトはどうだっただろうか。彼にはアブラハムのようなへりくだった態度が見られない。ふつうならまずアブラハムに遠慮すべきところだろう。しかし、ロトは当然のことのようにアブラハムの提案を受け入れて、目の前にある土地を眺めわたす。そして、もっとも潤ったところ、自分の目によいと思われる土地を選んでそこに移っていった。
 聖書はここで、私たちに二つの対照的な生き方を示している。一つは人間の計算によらず信仰によって行動する生き方で、アブラハムがそれを代表している。彼は神の御心に沿うことを第一と考えて、富の損失をも覚悟で信仰の冒険をしている。もう一つは見えるものを頼りにし、地上の生活の安定を第一に考える生き方で、ロトがそれを代表している。彼は地上の生活の安定が得られるならば、神なき世界に生きることもよしと考えた。彼はより豊かな生活を目指して、邪悪で罪深いソドムの町に天幕を張ったのである。
 そして、ここで注意していただきたいのは、神の民とこの世の人との対比がここでなされているのではなくて、神の民の内部にも時として生じてくる二つの生き方が対比されているということだ。ということは、これはキリスト者の間でも起こりうることが述べられているということだ。私たち一人一人の歩みにおいても、いつもこの二つの生き方の選択が迫られているのではないだろうか。信仰を犠牲にして地上の幸福を選び取るか、それとも愚かに見えても主に従う道を選び取るかである。これは人生の大きな決断において迫られると共に、毎日毎日の小さな決断の中でも迫られていると思う。我々は信仰者としてもっともふさわしい道を選びとっていきたいと思う。
 箴言に「人が見て正しいとする道でも、その終わりは死に至る道となるものがある」(16・25)という言葉がある。聖書はいつも分かれ道に立って正しい選択をするように求めている。またエレミヤも「あなたがたは分かれ道に立って、よく見、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩みなさい」(六・一六)と言っている。私たちは毎日の決断の中でふるいにかけられているのである。道を間違えないように注意したい。二つの道はそうはっきりと区別できないこともある。見極める力が必要なのである。そういうときのために、このアブラハムとロトの物語をいつも心に留めておきたいのである。
 このようにアブラハムが損失をも覚悟で神にすべてを委ねたとき、神は彼に声をかけられる。14節以下を見ると、こう書いてある。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから」(13・14~17)。
 これは、先に与えられた約束の更新である。神はアブラハムの信仰をごらんになり、その決断をよしとされ、このように再び祝福を約束なさったのである。信仰の冒険を引き受けたアブラハムは祝福され、後に見るように見えるものを頼りにしたロトは苦い運命を引き受けることになった。このあとロトが選んだ低地の町々は神の審きで滅ぼされ、ロトは這々の態でそこを脱出することになる。のちに創世記の一九章に出て来るとおりである。創世記が私たちに伝えたいことが何であるか、自ずと明らかだと思う。それは損失を覚悟しても神に仕える道を選べということだ。信仰によらない欲得尽くの歩みは滅びを招くということだ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿