夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

すこやかに生きる~脳にいいことしましょ~

2010-09-28 20:25:31 | 人生のかけら
 教会の礼拝は高齢者にとって非常によい脳の訓練になる。 これは講師の先生(たぶんまだ信者ではない)が当日教会で感じられたこと。賛美歌を歌い、聖書の話を聞くことはものすごくいい脳のトレーニングだと感動を込めて仰った。中高年は日曜日に教会に行ってみるといい。礼拝そのものの他に、教会までの往復や出席者同士の交流など、週日とは違う刺激に満ちている。 . . . 本文を読む

赤ちゃんが来て・・・

2010-09-25 09:33:23 | 折にふれて
 長女が出産。今、我が家に来ている。夫婦二人の静かな生活に、突如生まれたばかりの赤ちゃんがやってきた。娘は授乳とおむつの取り替えに明け暮れている。赤ちゃんは、泣くことが唯一の自己主張である。「お腹が空いた」も「おむつ替えて」も、「オンギャー、ウンギャー」。そのたびに、娘は消防士のように駆けつけて、赤ちゃんの求めに応じている。週末には、娘の連れ合いも泊まりに来る。それから、二女と三女も赤ちゃんをじかに見ようと、休みを取って東京から入れ替わりやってくる。二人だけだった牧師館が急に賑やかになった。 . . . 本文を読む

キリストの苦しみの欠けたところ?

2010-09-24 18:24:19 | 日曜日のメッセージ
 コロサイの信徒への手紙1章21~29節。  十字架を初めとするキリストの苦難は救いのために完全なものであった。ただ、もし何かが欠けているとしたら、それは何だろうか。それは世界中の人々にキリストの苦しみの効力を届ける労苦ではないだろうか。キリストは我々を救うために大きな苦しみを受けたが、それで事は終わったのではない。福音を伝える労苦を誰かが担うことが必要であり、今もキリストは福音宣教の戦いの中で我々と共に苦しみ続けているということであろう。福音が宣べ伝えられなければキリストの御業は完成しないのである。 . . . 本文を読む

痛テテテ、痛テテ、痛イ虫

2010-09-18 17:54:55 | 折にふれて
 この前の日曜日の朝、礼拝に来た教会員が玄関近くの植木に近づいたとたん、激しい痛みに襲われた。イラガの幼虫である毛虫に触れてしまったのだ。よく見ると大量発生しているではないか。この辺ではよく発生し、魚のオコゼになぞらえて「オコゼ」というらしい。触れると毒を出して、ビリビリという強い痛みを与える。またの名を電気虫とも。 . . . 本文を読む

多くの人の罪を負うために

2010-09-17 19:20:17 | 日曜日のメッセージ
 ヘブライ人への手紙9章23~28節。キリストの犠牲というのは、無頓着にならず、常に心を込めて黙想すべき重大な事柄である。ヘブライ書の研究で知られる川村輝典先生が、弦巻教会伝道開始四〇周年の記念でこの手紙の連続講解説教集を出しておられるが、この個所の説教のなかでキリストの犠牲の意味に触れて述べた言葉は注目に値する。「神にとってこれほど大きな屈辱はありません。神の愛は、その屈辱を乗り越えてあまりあるものです」(「見えないかたを見ているように」―へブル人への手紙 下―)と言っておられるのである。(写真はミシガン州ホーランドで見たキリスト者の墓地) . . . 本文を読む

感謝の献げ物

2010-09-10 20:37:23 | 日曜日のメッセージ
 コリントの信徒への手紙二 9章6~15節。11年前、アメリカの教会を視察する旅行に行かせていただいたとき、そこで感じたことの一つは寄附や献げ物の習慣が非常に豊かであるということだった。篤志家の献金で建てられた老人福祉施設や聖書博物館もあった。また、ミシガン州ホーランドのサードリフォームド・チャーチの中を案内されたとき、多くの備品が信徒の献げ物として整えられたということを知ることができた。指定献金のような形で教会に必要なものが加えられているのである。(写真は、この洗礼盤が幼い息子の逝去を記念して信徒が献げたものであることを説明する引退牧師) . . . 本文を読む

初孫誕生~こんにちは赤ちゃん

2010-09-08 17:29:35 | 折にふれて
 この赤ちゃんを産んだ長女が生まれたのは、30年前だ。その時、どんな気持ちで対面したらよいか分からぬままに、緊張しておそるおそる産科医院に見に行ったのを思い出す。赤いガウンを来た家内が、笑顔で、真っ赤な顔をした我が子を抱いて、ベビールームから出てきた。「これが自分の子かあ」と思わず空唾を飲んだ。そして、ひたすらシャッターを切った。それは今でも残っている思い出の一枚であり、我が子への精一杯の挨拶だった。 . . . 本文を読む

神から受け取った福音

2010-09-04 12:28:00 | 日曜日のメッセージ
 ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節。パウロが神から受け取った福音というのは、一言でいって律法の行いによらない救い、純然たる信仰義認の福音であった。これは、平たくいうと、キリストのおかげでどのような罪や過ちも無償で赦されているというものだ。そして、キリスト教とはそのことを信じ、心の底から安心することだと言える。赦しや救いをいただくに当たって、人間の側の条件は何もないのである。とにかく、罪にまみれた自分の存在が神の暖かいまなざしの中で無条件に肯定されているということが、パウロの信じた福音だった。  ところが、こういう福音の理解に対して、別のものが現れてきたとガラテヤ書は伝えている。それは救いにあずかるためには律法の業も必要だという考え方である。とりわけ割礼のしるしだけは必ず受けておく必要があるという主張だった。 . . . 本文を読む

私が好きな蝉たち

2010-09-01 18:42:12 | 折にふれて
 蝉に魅力を感じた少年時代の気持は今はほとんど忘れているが、夏はやはり蝉の鳴き声なしにはもの寂しい。今でも蝉しぐれの道を歩いては沸き立つエネルギーをもらい、つくつくほうしやひぐらしの鳴き声を聞いてはそこはかとない情緒を感じている。蝉たちのバラエティに富んだ鳴き声、それは聞きようによっては天から響く歌声のようではないか。 . . . 本文を読む