浜松に赴任してから半年が過ぎ、この辺の様子も少しずつ分かるようになった。外出から帰ってくると、教会堂がどっしりと構えていて、高台から中心街を見渡しているような風情がある。
あるとき、その風景を眺めながら、「母なる教会」という言葉がふと心をよぎった。幼い頃から聞いてきた懐かしい言葉だ。私の母親が洗礼を受けたとき、司式したドイツ人神父が「母ナル教会ヲ信ジナサイネ」と言ったとか。しかも、「たったその一言だけだったの」と、母はそう言って笑っていた。
神父がその言葉で何を言いたかったのか、私はまったく分からなかったが、後年カルヴァンの「キリスト教綱要」Ⅳの教会論に「母なる教会」という言葉を見つけてびっくりした。「カトリックだけの言葉じゃなかったんだあ!」と。
カルヴァン曰く。「われわれはこの母の胎内にみごもられ、この母から産みおとされ、この母のふところで育てられ、ついにこの母の指導監督のもとに見守られて、最後に、死すべき肉を脱ぎ捨てて、天使たちのようになるに至るのでなければ、生命に入る道はない。なぜなら、われわれの弱さは、われわれが学校から退学することを許さず、全生涯にわたって生徒であるよう要請するからである」(Ⅳ1-4 渡辺信夫訳)。もっと続くが、このくらいにしておこう。
教会はみ言葉と聖餐の食卓で、信仰者を導き養ってくれる「母」なのだ。毎日曜日、礼拝に集まるごとに、この「母なる教会」につらなる光栄を新たにしたい。ここを離れては我々はいのちの養いを受けることができないからだ。聖書は言っている。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」(Ⅰテモテ3章15節)。
(2009年10月9日)
あるとき、その風景を眺めながら、「母なる教会」という言葉がふと心をよぎった。幼い頃から聞いてきた懐かしい言葉だ。私の母親が洗礼を受けたとき、司式したドイツ人神父が「母ナル教会ヲ信ジナサイネ」と言ったとか。しかも、「たったその一言だけだったの」と、母はそう言って笑っていた。
神父がその言葉で何を言いたかったのか、私はまったく分からなかったが、後年カルヴァンの「キリスト教綱要」Ⅳの教会論に「母なる教会」という言葉を見つけてびっくりした。「カトリックだけの言葉じゃなかったんだあ!」と。
カルヴァン曰く。「われわれはこの母の胎内にみごもられ、この母から産みおとされ、この母のふところで育てられ、ついにこの母の指導監督のもとに見守られて、最後に、死すべき肉を脱ぎ捨てて、天使たちのようになるに至るのでなければ、生命に入る道はない。なぜなら、われわれの弱さは、われわれが学校から退学することを許さず、全生涯にわたって生徒であるよう要請するからである」(Ⅳ1-4 渡辺信夫訳)。もっと続くが、このくらいにしておこう。
教会はみ言葉と聖餐の食卓で、信仰者を導き養ってくれる「母」なのだ。毎日曜日、礼拝に集まるごとに、この「母なる教会」につらなる光栄を新たにしたい。ここを離れては我々はいのちの養いを受けることができないからだ。聖書は言っている。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」(Ⅰテモテ3章15節)。
(2009年10月9日)
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