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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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大きな苦難を通ってきた者

2014-10-30 19:57:36 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネの黙示録七章一~一二節。本日読まれたヨハネの黙示録は、凶暴な統治者が神を信じる人を弾圧した時代に書かれたものである。キリスト者にとっては受難の時代であった。定説によれば、ヨハネの黙示録が書かれたのは、紀元一世紀末のドミティアヌス帝の時代だったと言われている。彼は皇帝を神として拝むように強要する。そして、これに抵抗するキリスト教徒たちを弾圧したのである。そのため多くの人が殉教した。そのことはヨハネの黙示録からもうかがい知ることができる。六章一〇節によると、殉教者たち、すなわち「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂」は祭壇の下で、「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」と叫んでいる(六・一〇)。主よ、なぜですか、いつまで黙っておられるのですかと叫びたくなる現実がそこにあった。
 そんな時代に、苦しむキリスト者たちを励ます目的で書かれたのがヨハネの黙示録であった。この苦難の時代をどう受け止め、どう耐え忍ぶか、それが黙示録のテーマだった。権力に屈服したり、救いの希望を失ったりしてはならない。最後の勝利は神と小羊キリストにある。悪しき支配者は必ず滅びる。最後まで忍び通そう。これが黙示録のメッセージだった。この終末までの歴史の見取り図を、主に旧約聖書からとられたイメージとシンボルを使って克明に描いている。これはリアリズムの文章ではないので、冷静な想像力をもって読む必要がある。
最初のクリスチャンたちは本当によく耐えてくれたと思う。いくら迫害されても、殉教者を出しても、信仰の火は消えることはなかった。かえって、信仰は鍛えられ、一歩後退しても次には広まっていった。だから、今日のキリスト教が存在しているのである。この最初の人々の忍耐を忘れてはならないと思う。

 では、先ほど引用したあの殉教者たちの叫び、「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」という叫びに、黙示録はどう答えているだろうか。六章一一節ではとりあえず、「自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つように」と述べられていた。マラナタ、主よ来たりませと叫ぶ者には厳しい答えであった。まだ苦難時代は続く、しかし耐え忍べ。それが神様の答えだった。今はまだ終わりではないのである。
 では、なにゆえ「なお、しばらく静かに待つ」ことが必要なのだろうか。それが本日の七章の初めで告げられている。結論から先に言ってしまえば、今はまだ終わりではなく伝道、神の民召集の時だから、もうしばらく待っていてくれということである。新しい神の民クリスチャンの数が満ちるまで、終末は来ない。辛抱してくれということである。本日はこの七章をもう少し丁寧に見ていきたいと思う。
 七章で描かれているのは面白い場面である。大地の四隅に四人の天使が立っている。四隅というのは東西南北、世界のあらゆる方向ということである。そこに四人の天使たちが立っていて、大地の四隅から吹く風をしっかりと押さえている。世界を守っているのである。これは、どのような天変地異の中にあっても、信徒たちを守る神の御手が働いているということだと思う。
 するとさらに、生ける神の刻印を携えたもう一人の天使が、太陽の出る方角から現れる。そして、あの四人の天使に向かってこう念を押すのである。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」(七・三)。このまま大地の四隅から吹く風をしっかりと押さえていろということである。ここに、終わりの日に至るまでの神の計画が明らかにされている。神様は世界中から御自分の民を集め、彼らを見分けるためのしるしをつけておられると言うのである。それが完了するまで世界は滅びない。滅ぼす権威をもつ天使といえども手を下すことは許されない。そういうことがここに宣言されているわけである。
 ただこのしるしがどういうしるしなのか、具体的なことは何も書かれていない。神様の目にだけ明らかなしるしということであろう。神様に明らかならそれで十分なのである。神様はそれによって御自分の民を判別し、守ってくださる。そして終わりの日には審判によって滅びに定められることのないようにしてくださる。そういうことがここで示されている。

 そして、神様が御自分の僕たちの額に刻印を押しておられるということは、言い換えれば今は伝道の時代だということになる。神様は教会の伝道を通して、御自分の民を呼び集めて、彼らに刻印を押しておられるのである。そして、この御業は何物によっても妨げられることはないという励ましをここに読み取ることができる。現実の教会は迫害や周囲の無理解や無関心によって、伝道がなかなか進展しないと苛立ちを覚えることがあるかもしれない。また、教会内のもめ事のために伝道が阻害されていると思うこともあるかもしれない。しかし、そういう中でも神様は働き続けておられるということを忘れてはならないのである。
 またここで、刻印を押された者の数は一四万四千人であると言われているが、これは実際の数字ではない。聖書の世界では一二というのは特別の数字であって、過不足のないことを表している。一四万四千人は、その一二の二乗のさらに千倍となっている。一二の二乗は一四四だが、それに千をかければ一四万四千になる。千は数え切れないほど沢山のという意味である。これだけの結果を神様ご自身が出してくださるということである。また、神様はその御計画を完全に実現してくださるということを意味している。
 我々はこの神様御自身の約束に答えて、伝道に励まなければならないと思う。人間の目にはすぐに結果が出ないように見えても、伝道はおのずと進展しているのである。そして多くの神の民が集められ、その数が満ちたときに終末が来て、神に逆らう世界に神の正しい審きが下される。これが黙示録の考え方であり、必ず訪れるその時を待つようにと黙示録は勧めているのである。
 そして、その時が来たときに、神の民の勝利が明らかにされる。そのことが七章九節以下で述べられている。ここでは天の玉座の前にいる無数の群衆が白い衣を着て登場し、神を賛美している。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」
 ここに登場するのは、すでに天上界に移された信徒たちである。「白い衣」というのは、天上界に帰属することを表すシンボルである。六章一一節では殉教者たちに白い衣が与えられているので、この七章の大群衆に殉教者が含まれていることは明らかである。また「なつめやし」というのも仮庵祭に由来し、エジプト脱出後のイスラエルを記念するもので勝利のしるしであった。こういう天上界の場景を描くことで、苦難の中にいる信徒たちに最終的な勝利と安息を保証しているのである。

 これは感動的で壮大な場面である。これだけの大群衆が集まって、天の玉座の前で神を礼拝するのが、来たるべき天上の教会の姿であるということだ。ここに、キリスト者たちの勝利が示されている。もちろん、私たちはすでに地上においても神に礼拝を捧げている。でも全面的にそうなっている訳ではない。地上の教会は戦いの教会であって、神を熱心に礼拝すると同時に、信仰を脅かすものとも対峙している。人間の弱さや怠慢、迫害する者や邪悪な教えとも戦っている。そういうものに揺すぶられ、足を引っ張られながら、懸命に戦いながら信仰に励んでいるのである。地上の教会は、まだ完全な勝利には到達していない。痛みがあり、弱さがあり、傷があり、部分的な敗北もある。
 しかし、天上の教会は勝利の教会であって、すべての痛みと傷からいやされて、全面的に神を礼拝するのである。そういう場景がここに描かれている。ここで、群衆が大声で賛美した言葉、「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」というのは重要な言葉である。これは一見当たり前すぎる言葉のようだが、当時の状況からすると驚くべき勝利の宣言であった。「救い」というのは、ここでは神の最高にして力ある働きのことである。栄光、譽れ、力と同義である。しかし、当時は本当の救い主が隠され、栄光や譽れは皇帝のものだと主張され、貨幣にも「最高の神、救い主、皇帝ドミティアヌス」と刻まれていた。こういう地上の現実が過ぎ去り、勝利が本当の救い主のもとに戻るという宣言がここにあるのではないだろうか。いやどんなに敵対者が勝ち誇っても、最後はまことの神が勝利するという宣言でもある。この逆転の思想が黙示録に特徴的なものである。
 この最後の勝利を仰ぎながら、我々も地上の信仰生活を戦い抜くのである。今のつらい現実は最終的なものではない。今の苦難こそ最後の勝利への通過点なのだ。恐れたり萎縮したりしないで、最後の勝利を確信して忍び通せと、ヨハネ黙示録は教会を励ましているのである。


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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2014-10-31 18:58:51
来年2月21日(土)の同窓会の日に、同窓生を対象に演奏がしたいということでしょうか。そのへん、もう少し詳しく教えてください。
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オルガン演奏のご希望について (ブログ管理人)
2014-11-03 11:17:23
福田様。昨日教会の役員会があってこの件について相談しましたところ、弾いていただくことは問題がないということでしたが、もう少し詳しくいきさつなどを教えてほしいと言うことでした。私がうまく説明できなかったのかもしれません。つきましては、お手数ですが教会宛に書面で依頼状のようなものを送ってくださいませんか。会堂使用、備品の使用ということにもなりますので、こちらが定めた手続きに従っていただくことにもなります。できるだけご希望に添いたいと思っております。
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