夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

荒れ野の誘惑

2013-02-22 14:22:50 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書4章1~11節。荒れ野の誘惑はこのイエスのメシアの使命に関わる誘惑である。悪魔はそこで二度に渡って「あなたが神の子なら」ということばで誘惑を語っている。「神の子なら、石をパンに変えてみなさい」。「神の子なら、神殿の屋根の上から飛び降りてみなさい」。明らかに、神の子という身分と権能を、本来の使命のためにでなく、別の目的で使わせようとしている。「苦難の僕」の道から逸らせてしまおうという誘惑であった。イエスの心の中にある神の声をかき消してやりたい。神の御心よりももっと大事なことがあると思わせてやりたい。神様に従っていたのでは埒が開かない、それでは駄目だという気持ちにさせてやりたい。これが、サタンのねらいであった。そして、これはいつも私たちの心にささやきかけるサタンの声なのである。 . . . 本文を読む

信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか

2013-02-22 12:14:20 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書14章22~33節。私たちは信仰においてもしばしば弱さを感じるものである。もう一つ力が及ばないという限界にぶつかる。しかし、行き詰まったそのところで、「主よ、助けてください」と叫ぶ。そのとき、主は憐れみ深く、私たちに手を差し伸べて、溺れかかる足を引き揚げてくださるということではないだろうか。「このことを信じていいぞ」とマタイ福音書は語りかけているのだと思う。「信仰が薄い」というのは情けないことだが、我々の信仰の現実としてありのままに認めたほうがよいことである。そのことを認めて、自分の無力を告白するとき、主は助けのみ手を伸ばしてくださる。そうなさらないほど厳しいお方ではないのである。そして、主に助けられて、我々は次のステップに進むことが許されるのである。 . . . 本文を読む

婦人よ、あなたの信仰は立派だ

2013-02-02 10:14:24 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書15章21~31節。まず、ここに出てくるイエスはなぜか非常に冷淡なイエスとして描かれている。イエスは憐れみを乞う母親の願いに何も答えようとしないのである。他の個所ではあんなに情け深い、愛に満ちたイエスが、ここでは恵みを拒むイエスに変わっている。8章にある百卒長の僕のいやしでは、イエスは異邦人に対しても親切に振る舞っておられた。しかし、ここでは母親が何度叫び続けても、イエスから帰ってくるのは無視と拒絶の返事でしかないのである。でも女はあきらめなかった。そしてイエスも女の信仰を受け入れる。私たちは本日の奇跡物語をとおして、ねばり強い祈りの姿勢、へりくだった信仰を学ぶと同時に、神の恵みがいかに豊かで無尽蔵なものであるかを、学び取ることができると思う。ここにはイエスの時にはまだ展開されることのなかった異邦人伝道の前触れが示されている。 . . . 本文を読む

心の貧しい人は幸いである

2013-02-02 09:53:04 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書5章1~12節。本日は山上の説教冒頭の幸いの教えが取り上げられている。幸いな人とはどのような人かということが列挙され、一つ一つにこういうわけだからという根拠が与えられているのである。最初のものを例にとれば、「幸いなるかな、心の貧しい人々。天の国はその人たちのものだから」となっている。信仰と生活のガイダンスである山上の説教がこういう幸いの教えで始まっていることは興味深いと思う。幸いなるかなと語ることで、イエスは御自分に従う歩みに私たちを引き寄せようとしているのである。注意したいことは、「お金持ちは幸いである」とか、「健康と才能に恵まれた人は幸いである」とは言われていないということである。ここには誰もが当たり前のこととして望んでいることは出てこないのである。むしろ、「心の貧しい人」とか「悲しんでいる人」とか「義に飢え渇いている人」など、通常では幸福とは思われていないもの、不幸だと思われているものが、かえって幸いなんだと言われている。ここでは当たり前のことが言われているのではなくて、イエス・キリストにおける価値観の逆転が問題になっていることが分かるのである。 . . . 本文を読む

人間をとる漁師にしよう

2013-02-01 20:43:11 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書4章18~25節。最初の弟子たちはガリラヤ湖で働く漁師でありました。毎日毎日魚を捕るために海に出る。そんな生活をしている人々でした。そういう人々が今度は魚ではなく、人間をとる漁師となると言うのです。「あなたがたを人間を相手にする漁師にしよう」「きっとそうしてみせる。ついてきなさい」。これはイエスさまの約束であり、また願いでもあったということことができます。最初の弟子たちが漁師であったということは、象徴的なことであります。伝道活動を人間をとる漁として語るというのは、いささか乱暴なような印象もあります。求道者や一般大衆は獲物のようなものであって、伝道する教会の手によって無理矢理釣り上げられるといった感じがしないでもありません。もちろん、それは殺すための捕獲ではなくて、生かすための捕獲、命の恵みへと救いあげることなのですけれども、それにしても穏やかでない言い方だと思います。 . . . 本文を読む

イエスの洗礼

2013-02-01 20:34:31 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書3章13~17節 イエスの洗礼という出来事は、イエスの生涯の一つの謎だと言うことができる。メシアであるイエスがどうして格下のヨハネから洗礼を受ける必要があったのかという問題である。ヨハネに近づいて親しい交わりをもつのはよいとしても、洗礼まで受けることはなかったのではないかという疑問が残るのだ。イエスが罪なき神の子という信仰を前提にすれば、ますますそれは謎なのである。洗礼というは罪人が受けるものだからだ。それに加えてまずいことがあった。マタイ福音書が書かれた一世紀末には、洗礼者ヨハネの弟子集団が生き残っており、自分たちの優位性を主張していたからである。だから、キリスト教会の側からすると、イエスがヨハネから洗礼を受けたという事実はあまり都合の良いことではなかったのである。ヨハネがイエスの上に立っているかのような印象があるからだ。が、それだけに、イエスの洗礼ということは初代教会が創作したエピソードではなく、史的事実としか考えられないということにもなる。とにかく謎の残る出来事だったのである。 . . . 本文を読む