ヨハネによる福音書11章17~27節 本日のラザロの葬儀の場面では、イエスは遅ればせながらそこにおいでになる。もっと早くこようと思えば来れたのに、わざとゆっくりしておられたのだ。11章6節で「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された」と書いてある。そして、着いたときには、ラザロは墓に葬られてすでに四日も経ってしまっていた。何で急いでくださらなかったのかと言いたくなる場面だ。読者としてはそういう気持ちでやきもきするので、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」というマルタのことばは、イエスへの不満を込めた言葉であるかのように聞こえてくる。しかし、イエスによれば、この遅れに大きな意味があるというのだ。11章15節では「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」と言っておられる。イエスはあえて遅れてくることによって、大事なことを明らかにしようとしておられるのである . . . 本文を読む
マタイによる福音書12章38~42節。ユダヤ人の指導者たちは表面は慎重さ、用心深さという仮面をかぶっているが、実は神の言葉を聞き取ろうという純真な心を失っているんだということである。イエスの言葉を聞いても心動かさず、イエスの働きを見ても信用しない。新しい神の呼びかけに共鳴することができない。そういう状態であるならば、しるしという方法で事柄を証明しても本当の信仰は生まれないということではないだろうか。しるしを求める心には、神に従おうとしない心、神を信じない心が潜んでいるということだ。そこを何とかしないと、本当の解決にはならないとイエスは言っておられるように思うのである。 . . . 本文を読む
イザヤ書65章17~25節。本日のイザヤ65章は、暗い現実の中にある人々に光を与える。神は御自分の民の苦しみに無関心な方ではないということだ。その苦しみを見て、創造者としての力をもって、臨んできてくださるということだ。そして、その神の働きには思いもよらないすばらしい結果が伴ってくると告げているのである。この神を信じる者のみが困難の中を最後までへこたれずに歩み通すことができるということではないだろうか。また、創造者なる神がやがて人の最大の悲しみである死を克服してくださるということも暗示されている。 . . . 本文を読む