goo blog サービス終了のお知らせ 

夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

信仰義認の教説は倫理的怠慢や逸脱を招くのか?

2018-05-11 16:58:18 | キリスト教
 クローゼットを整理していたら昔の話のメモが出てきました。1980年12月14日の週報の裏に書いたものでした。出だしはこうです。「かつて『知的生活の技術』(講談社現代新書) で有名になった渡部昇一氏の『ドイツ留学記 上・下」』(同)という本を読んだ。そのなかでドイツのキリスト教におけるカトリックとプロテスタントの違いが述べられており、興味深いところがあった」。前者はベストセラーになって渡部先生の名をこの世に知らしめました。私も面白いいい本だと思いました。でも後者を読んで「おやっ」と思いました。その信仰義認理解がいささか一面的だったからです。そして表題のような問題意識から、家庭集会でお話をしたのです。以下、メモを文章に起こしてみました。なお渡部昇一先生はカトリックの信者だそうです。昨年、86歳で亡くなられました。 . . . 本文を読む

エマオ途上の物語―復活のイエスと出会うとは

2016-04-06 14:37:11 | キリスト教
 ルカによる福音書24章13~35節。この箇所から聞かなければならない中心点は、二三節で言われている天使たちの告知「イエスは生きておられる」というものです。あの十字架につけられたナザレのイエスが本当に生きている。すべては無駄ではなかった、すべてが神の救いのご計画の中で起こったということです。弟子たちは最初のうちこの告知を聞いてもたわごととしか思いませんでした。この心の鈍い弟子たちが復活の主を認めて、心弾ませてエルサレムへ戻っていくまでには、ルカによると二つのことが必要だったのです。それは聖書全体の正しい理解と、聖餐式に代表される教会の交わりへの参加でありました。とりわけ今日のわたしたちにはこの二つのことの中で主の臨在に気付くことが大事なのです。 . . . 本文を読む

「しかし、疑う者もいた」~イエス復活のふしぎ(マタイ)

2016-04-01 13:25:45 | キリスト教
 マタイによる福音書では、この「疑う」と訳された言葉は、もう一度別のところで出てきている。それは、一四章にあるイエスの水上歩行の奇跡においてである。湖の上を歩いてこちらに来るイエスを見て、ペトロは感動し、自分も水の上を歩いてそちらに行かせてくださいと頼む。そして、「来なさい」という主の返事に答えて、彼は湖の上を歩き始めるのだが、途中で強い風が吹いてきて恐くなり、溺れかけてしまう。その時に、主イエスが仰った言葉が、あの「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というものであった。ここにみられるように「疑う」というのは、信仰がないから起こるのではなくて、信仰はあるけれども現実の厳しさのゆえに揺らぐのである、そのために大丈夫かなと思ってしまう。そういう状態を指している。こちらでは復活のイエスの出現があまりにも不思議なことなので、本当かなと受けとめかねているということである(マタイ28:17)。 . . . 本文を読む

イエスの復活(イースター)

2016-03-26 16:12:25 | キリスト教
 本日は復活日イースターを迎えた。聖書は十字架で死んだイエスは復活したと告げている。こんな信じがたい話があるだろうか。楽しく賑やかなクリスマスに較べて、イースターというのはなんと静かで不思議な出来事を告げていることだろうか。  キリストが復活したという確信から弟子たちの再出発が起こる。そして、この再出発によって今日に至るまでの二千年のキリスト教の歴史が始まったのである . . . 本文を読む

イエスの十字架(受難日礼拝)

2016-03-26 11:44:51 | キリスト教
 神殿の垂れ幕が破れ落ちたということは、旧約のいけにえや祭司の制度が終ったということだ。誰でもイエス・キリストによって神のみまえに近づくことができる時代がきたということ意味している。つまり、イエス・キリストが十字架の上でご自身を捧げてくださったがゆえに、私たちは動物の犠牲という不完全なのものによらずに、イエスによって神に近づくことができるということだ。また、罪の赦しを確信して心置きなく神を礼拝することができるということでもある。これは旧約が目指していたものの成就でもあった。こういうことを、イエスの十字架の死はもたらしてくれたのだと言っているのである。 . . . 本文を読む

受難日礼拝(二〇一五年年四月三日 金曜日)

2015-04-05 19:09:31 | キリスト教
ルカ福音書は十字架にかけられたイエスが我々に何をもたらしたかを明確に伝えています。十字架にかかられたイエスは、苦痛を耐え忍ぶ中で、我々への深い愛を明らかにしてくださいました。十字架を通して、人々に本当の救いを与えようと心からせつに願っておられました。それは、罪の赦しと永遠の命であるということができます。そして、それはすべての人を包むものであり、しかも救い主との出会いに遅すぎるという人はいないということです。これが本日のメッセージです。 . . . 本文を読む

光は闇の中に輝いている(クリスマス燭火礼拝メッセージ)

2014-12-25 09:40:48 | キリスト教
 人は自分の中に「抜き差しならぬ心の闇」を抱えています。明るく元気にしている人も、たまたまそうであるに過ぎません。仕事や家庭がうまくいっていたり、健康が保たれていたり、趣味や娯楽の楽しさに助けられて、闇を見ないで済むようにされています。でもこの世の時は過ぎ去ります。今持っているものはやがて失われます。厭でも自分の心の闇に気付かされるときが来ます。闇を照らすものをもたずしては生きていることも死ぬこともできません。あるときふとそのことに気付くのです。 . . . 本文を読む

キリスト教を知りたい―『ルターの小教理問答』に学ぶ

2013-08-25 16:01:44 | キリスト教
 キリスト教を知りたい。ならば聖書があります。聖書があることこそキリスト教の最大の特色です。しかし、聖書は旧約39巻、新約27巻、全66巻もある厖大な書物です。これを読みこなしてキリスト教の真髄を正しく読み取ることは容易なことではありません。さらに、教会として一致できる結論を引き出すことはなおさらです。そこで、教会は聖書に基づいてカテキズムというキリスト教要理を作ってきました。教理問答とか信仰問答とも呼ばれます。その先駆となったのが、マルティン・ルターの小教理問答書(1529年)でした。その骨子は十戒、使徒信条、主の祈りというキリスト教の3つの重要な文言と、聖礼典(洗礼と聖餐)についての教えです。これらを分かりやすく示すことで、信徒たちを教育しようとしたのです。教理問答を学ぶことで聖書の教えの中心点がはっきりします。そして、聖書の森に分け入るための見取り図をもつことができるのです。ルターの小教理問答書は簡潔明瞭で親しみやすく、今も広く使われているものです。これの新しい訳を試みてみました。 . . . 本文を読む

教会創立記念日

2013-08-10 14:05:13 | キリスト教
 7月25日は浜松教会の創立記念日です。沼津で宣教師ミーチャムから受洗し、熱心なキリスト教信者となった高野一という人物が、聖書を売りながら浜松に来て、しばらく親類の大川義房宅に滞在して教えを説きました。その結果、大川のほかにも、求道する者が現れたのです。そこで、高野は静岡教会に応援を依頼、1883年頃静岡教会から福音士(信徒伝道者)結城無二三が派遣されました。出張講義所は、連尺町の松浦屋という小さ . . . 本文を読む

教会納骨堂の改修

2013-08-10 13:47:15 | キリスト教
教会の納骨堂の工事が完了しました。内部にH鋼を組んで地震に対し十分な補強が出来ました。正面のドアーがアルミとステンレスで美しく仕上がっています。内部のロッカーも転倒防止器具で止めてあります。工費はおよそ126万円でした。外装も塗りかえられました。墓所はきれいに保つ心遣いが大切と、あらためて感じました。正面に彫ってある聖句は、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生 . . . 本文を読む