マタイによる福音書25章31~46節。本日は伝統的に終末主日とか「王であるキリスト」の祝日と言われています。神の国の王であるキリストが最後の審判を行うために再び来られる日を覚える主日です。
終末の日に、私たちクリスチャンは何を基準にして裁かれるのでしょうか。結論を言えば、主がここであげておられる審きの基準は、愛のわざがなされたかどうかということです。34節以下をみますと、終末の審きの座に着かれた王なるキリストは、右側により分けられた人々に、「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」(34~36節)と言われます。逆に、そうした愛のわざをしなかった左側に人々には、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(四一節)と宣告するのであります。
飢えている人に食べ物を、喉の渇いている人に水を、旅人に宿を、裸の人の着るものを与えること、そして病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねること。これらは誰にでもできる日常的な援助であります。こんな何でもない愛のわざが審きの基準にあげられていることは注目に値することであります。
マタイがこの箇所で言いたいことは、私たちが愛のわざを実らせるような本当の信仰に生きなさいということです。愛のわざで救われるのか、信仰によって救われるのかという二者択一的なことを問題にしているのではありません。この物語を読んで、大変だと思って、あわてて愛のわざを実践し始めても、それは救いの保証にはならないでしょう。終末対策としての単なるポイント稼ぎの愛のわざは本当の愛のわざではないのであって、それは逆に「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」(四三節)と言われてしまうと思います。
マタイは伝統的な審判のイメージを用いておりますが、これによって私たちを行為義認の世界に駆り立てているのではないのです。むしろ、あのパウロがガラテヤ5章6節で言う「愛によって働く信仰」、新共同訳では「愛の実践を伴う信仰」、そういう良い実を結ぶ本当の信仰に私たちが生きることを願っているのです。これなしにいくら口先で正しい信仰を告白しても神様はお喜びにならないということなのです。
日本基督教団信仰告白の再臨待望の言葉には「愛のわざに励みつつ主が再び来たりたもうを待ち望む」という文言があります。「愛のわざに励みつつ」とわざわざ言っていることは注目に値します。正しい信仰と愛のわざは切り離すことのできません。正しい信仰を告白して神を礼拝している人には、知らず知らずのうちに愛のわざが伴います。こういう実を結ぶ信仰を神様は終わりの日に見たいと願っておられるのです。
愛の強調は紛れもなく新約聖書に由来するものです。イエス・キリストに端を発するものです。どうか、我々は主が再び来たりたもうその時に、特別な業績や名声にならないものでよいですから、愛の果実を身に付けたクリスチャンとして主のみ前に立つ者でありたいと思います。日頃の何でもない言葉と業の中に、イエス・キリストの愛の心を滲ませていきたいのです。
終末の日に、私たちクリスチャンは何を基準にして裁かれるのでしょうか。結論を言えば、主がここであげておられる審きの基準は、愛のわざがなされたかどうかということです。34節以下をみますと、終末の審きの座に着かれた王なるキリストは、右側により分けられた人々に、「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」(34~36節)と言われます。逆に、そうした愛のわざをしなかった左側に人々には、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(四一節)と宣告するのであります。
飢えている人に食べ物を、喉の渇いている人に水を、旅人に宿を、裸の人の着るものを与えること、そして病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねること。これらは誰にでもできる日常的な援助であります。こんな何でもない愛のわざが審きの基準にあげられていることは注目に値することであります。
マタイがこの箇所で言いたいことは、私たちが愛のわざを実らせるような本当の信仰に生きなさいということです。愛のわざで救われるのか、信仰によって救われるのかという二者択一的なことを問題にしているのではありません。この物語を読んで、大変だと思って、あわてて愛のわざを実践し始めても、それは救いの保証にはならないでしょう。終末対策としての単なるポイント稼ぎの愛のわざは本当の愛のわざではないのであって、それは逆に「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」(四三節)と言われてしまうと思います。
マタイは伝統的な審判のイメージを用いておりますが、これによって私たちを行為義認の世界に駆り立てているのではないのです。むしろ、あのパウロがガラテヤ5章6節で言う「愛によって働く信仰」、新共同訳では「愛の実践を伴う信仰」、そういう良い実を結ぶ本当の信仰に私たちが生きることを願っているのです。これなしにいくら口先で正しい信仰を告白しても神様はお喜びにならないということなのです。
日本基督教団信仰告白の再臨待望の言葉には「愛のわざに励みつつ主が再び来たりたもうを待ち望む」という文言があります。「愛のわざに励みつつ」とわざわざ言っていることは注目に値します。正しい信仰と愛のわざは切り離すことのできません。正しい信仰を告白して神を礼拝している人には、知らず知らずのうちに愛のわざが伴います。こういう実を結ぶ信仰を神様は終わりの日に見たいと願っておられるのです。
愛の強調は紛れもなく新約聖書に由来するものです。イエス・キリストに端を発するものです。どうか、我々は主が再び来たりたもうその時に、特別な業績や名声にならないものでよいですから、愛の果実を身に付けたクリスチャンとして主のみ前に立つ者でありたいと思います。日頃の何でもない言葉と業の中に、イエス・キリストの愛の心を滲ませていきたいのです。
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