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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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アブラハムもサラも笑った

2014-11-13 09:14:24 | 日曜日のメッセージ
 創世記一八章一~一六節。この場面は、アブラハムの日常生活のある一断面を切り取ったような、面白いエピソードである。アブラハムが客人をもてなす様子が詳しく紹介されている。至れり尽くせりの歓待ぶりだった。自分の家に立ち寄るように願い出て、足を洗う水を用意し、涼しい木陰の場所を提供し、そして食事の支度をするのである。その食事は量質とも最高のディナーであった。メニューまで詳しく紹介されている。旅人を手厚くもてなすことは、遊牧民の美しい習慣であり、また掟でもあった。
 そして、こういうもてなしの頂点で、旅人は突然神の使いとしての姿を現すのである。そして、驚くべきことを語るのである。それは、来年の今頃、サラには男の子が生まれているというものだった。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」。アブラハムもサラも、「まさか」と思って驚く。自分たちはもう年をとっており、そんなことはありえないと思ったからである。当然といえば、当然の反応であった。
 しかし、神の使いは彼らの思いを打ち消して、さらに語る。「なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。この一四節の言葉、「主に不可能なことがあろうか」、ここに本日の箇所の中心点があり、この言葉を伝えようとして本日の箇所は語っているとさえ言える。アブラハム物語全体を通して、我々はこのことを学び取らなければならないのではないだろうか。約束を与えた主は、人間にどんなに不可能に見えても、必ずそれを実現させる力をおもちになるということだ。言い換えれば、神は全能者だということだ。

 だが、本日の箇所を読みながら、信仰の歩みとは何であるか、改めて考えさせられる。というのは、アブラハムは「信仰の父」であると言われながら、実際の歩みの中ではしばしば信仰的に破綻しているからである。
 確かに、アブラハムは神の召しに答えて行き先の解らぬ道に出て行ったし、子孫を増やすという神の約束を信じたとされている。そして、その信仰が神に義とされたとも言われている(一五・六)。
 しかし、そうでありながら、アブラハムは現実の生活の中ではその信仰と矛盾したこともしているのである。その最たる例は、子供ができないのに耐えられなくなった妻サラの願いで、女奴隷ハガルに子を生ませたことである。一六章にあるその話はアブラハムとサラの不信仰をさらけ出しており、結局、家庭内の不和とハガルの追放というやりきれない結末で終わっている。間違った決断であった。また、一七章では、あなたに子を与えるという神の約束を聞いて、アブラハムはひれ伏したものの、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」とひそかに言って、笑ったのである(一七・一七)。アブラハムは一方では神の約束を信じていながら、もう一方で人間的な弱さ、疑い深さも露呈しているのである。創世記は決してアブラハムを理想化していないことが分かる。

 そして、本日の一八章では、神の使いの言葉を聞いて、今度はサラがひそかに笑うのである。「この年寄りの自分に子供が産まれるですって? そんなはずがないじゃありませんか」ということだ。そして思わず笑ったのだ。自分は老人だ。子を生める体ではなくなっている。主人も年老いてしまった。来年の今頃男の子を産むなどと言われても、笑うしかなかったのである。
 ふつう笑いというのは、楽しいときや面白いときにでるものだが、面白いもので、人は困ったとき、行き詰まったとき、疑問を感じたとき、腹が立ったときにも、時として笑うのである。それは皮肉と自虐と嘲りをこめた笑いである。泣くに泣けない、怒こるに怒れない、だったら笑うしかないじゃないかといった感じの笑いである。サラはここでひそかに笑った。そして、そのひそかな笑いが神の使いに見透かされてしまうのである。サラは恐ろしくなって、あわてて否定するが、神の使いは「いや、あなたは確かに笑った」と、再度するどく指摘する。神様はすべてをお見通しであった。
 でも、本当に我々は神の約束を笑わないで信じる者になれるのだろうか。この箇所を読みながら思うことは、我々は何度神様の前でひそかに笑ったかわらないということである。信仰の父とも言われるアブラハムも「百歳の男に子供が生まれるだろうか」(一七・一七)と言って笑い、妻サラも神の約束を信じ切れないでひそかに笑った。彼らは信じて従ってきたがついに不信仰をさらけ出してしまった。では、そういう神の約束を聞いてひそかに笑うような信仰を本日の箇所は咎めているのであろうか。ある意味ではそういう面もあると言える。笑っていいわけはない。しかし、一概に非難ばかりしているのではない。
 本日の箇所は、神の約束を笑ったサラに対して意外に寛大であることに気付かれないだろうか。神の使いはサラが笑ったことを指摘しながらも、ことさら咎めることなく、「来年の今頃、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」と約束を繰り返している。神様は人間の限界をはじめからご存じなのである。大胆な言い方をすれば不信仰の笑いさえ許容しておられる。その証拠に神様は生まれてくる子どもに「イサクと名付けなさい」というのである。イサクとはヘブライ語で「彼は笑う」という意味をもっている。人間が信じ切れないで笑うような大いなることを神はなさるという意味がここには含まれていると言える。また、神様のユーモアのようなものさえ感じられるのである。
 ということは、この箇所の最大の関心事は、人間の信仰の強さではないということだ。アブラハムやサラの信仰をほめたたえることが創世記の関心事ではない。そうではなく、神様の計画、救いをもたらす神様の導きは、人間の信仰をはるかに越えて確かであるということが言いたいのである。「主に不可能なことがあろうか」。この言葉を何よりも伝えたいのである。そして、神様とは信仰をもつ人間さえも笑わずにおれない事柄を、実現に至らせる全能のお方なのだと教えている。このことを知らされて、おのれの不信仰を反省しつつ、一歩また一歩信仰の道を歩んでいくのが、現実の信仰なのではないだろうか。
 非の打ち所ない、完全な信仰というものはない。人間の信仰は試練の中で一時的に頓挫してしまうことがある。でも、そんな限界のある信仰を神様は疎んずることなく、これを助け起こし、これを支えながら、ともに歩んでくださる。それが信仰の歩みというものであり、信仰生活の現実なのである。アブラハムの生涯を振り返りながら、もう一度、我々は自分の信仰生活に反省と明るい展望をもちたいと思う。

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