夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

十字架にかけられた王

2014-11-22 19:56:26 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書二三章三二~四三節。王と言えば当時の人々は、強大な力をもち、意のままに民を支配する専制君主を思い描いていた。主イエスもルカ二二章二四節で「異邦人の間では、王は民を支配し、民の上で権力を振るう者が守護者と呼ばれている」と言っておられる。また、ユダヤ人は当時、異教徒の支配を駆逐する王をきたるべきメシアとして期待していた。でも、イエスはこういうこの世の王とはまったく違う形でメシアの使命を果たすというのだ。他者を救うために己を空しくし、自分を犠牲にして死に至るまで人に仕えるメシア。十字架上でイエスが明らかにしているのは、まさにこういう王の姿であった。 . . . 本文を読む

低きにくだる神

2014-11-15 20:35:37 | 日曜日のメッセージ
 出エジプト記三章一~一五節。モーセははある不思議な導きでエジプトの王宮で育てられたが、青年時代に民族意識に目覚める。そして、ヘブライ人の同胞がエジプト人に虐待されているのを見て、そのエジプト人を打ち殺すというあやまちを犯してしまうのである。そのために、追われる身となり、親類のいるミディアンの地に身を寄せていることになった。モーセはそこで羊飼の生活をして生計を立て、ツィポラという女性と結婚し、一児を設けた。長い年月が経過する。自分の過去は思い起こすことも苦痛だっただろうし、同胞のために歴史の表舞台に立つことなど夢にも考えなかったろう。今はモーセは寄留者として生きる人物であった。エジプトの王宮で身に着けた知識も教養も今は何の役にも立たない。ただ生き延びるだけの生活を余儀なくされていた。ところが、神様はモーセを忘れておられなかった。 . . . 本文を読む

アブラハムもサラも笑った

2014-11-13 09:14:24 | 日曜日のメッセージ
 創世記一八章一~一六節。本日の一八章では、神の使いの言葉を聞いて、今度はサラがひそかに笑うのである。「この年寄りの自分に子供が産まれるですって? そんなはずがないじゃありませんか」ということだ。そして思わず笑ったのだ。自分は老人だ。子を生める体ではなくなっている。主人も年老いてしまった。来年の今頃男の子を産むなどと言われても、笑うしかなかったのである。しかし、主の使いは言う。「主に不可能なことがあろうか」。 . . . 本文を読む