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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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神への誠実

2014-09-20 19:00:24 | 日曜日のメッセージ
 列王記上二一章一~一六節 私たちにははいくつかの大切な課題がある。家族に対する責任とか、社会に対する責任といったものもある。数え上げれば切りがない。だが、信仰生活に召された者にとって一番大切なことは、神様に対する責任、神が与えてくださった恵みに対して誠実に生きるということではないかと思う。神が与えてくださったものを、粗末にしてはならないということである。それを大切に保ち、守っていくことが求められている。
 歌舞伎とか狂言のような伝統芸能の世界では、何百年も前からの同じ所作、同じ台詞を忠実に伝えているのだそうである。信仰の世界がそれと全く同じだというのではないが、神様や先達から受け継いだ大切なものを守るという意味では、相通じるものがあるような気がしている。
 キリスト教では最初の四世紀間に立てられた信仰基準を基本信条といって、すべての教会がこれを守っている。絶対に変えたり、取り消したりしないのである。我々が礼拝で告白している使徒信条はそのひとつである。もちろん私たちには、与えられた信仰をその時代その時代で適切に表現していく使命もあるわけだが、同時にその核になる大事なものをそのまま後世に伝えていく使命も帯びている。神からいただいた賜物や遺産を減らしたり、変質させたりせずに継承していくこと、ここに信仰者の重要な課題があると言って差し支えない。それが神への誠実ということなのである。

 今述べたこととの関連で注目に価するのは、列王記上二一章にあるナボトのぶどう畑の記事である。これは、痛ましい出来事である。悲劇であるがその中心にはナボトという人物の神に対する誠実な態度が光り輝いている。
 ナボトという人物は、特別な人ではない。イズレエルという町にぶどう園をもつ農民であった。先祖伝来の信仰を守り、平穏な生活を営んでいた。しかし、そのぶどう畑が、たまたまアハブ王の宮殿のそばにあったために悲劇が起こるのである。
 ことの発端は、王様のちょっとした我が儘から起こった。イズレエルという地は、軍事的な要塞であったと同時に、冬の寒い時期を過ごす保養地でもあった。そこに立てた宮殿というのは今日でいえば別荘みたいなものであろう。アハブはその宮殿のそばに菜園を作って、滞在中の楽しみにしたいと思ったのである。そこで、アハブはナボトに話を持ちかけた。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」(2節)。
 これは悪い話には聞こえない。王様がへりくだって一介の市民に願い事をしているのだ。しかも、力ずくで土地をくれというのではない。今よりまさるとも劣らない代替地を用意するか、地価に見合ったお金を支払おうというのである。今なら、こういう話に乗る人も多いのではないか。実際そうやって宅地造成や都市部の再開発が行われている。

 しかし、こういう王の頼みではあったが、ナボトはこの話をきっぱり断るのである。気まずいことだったが、妥協はできなかった。「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(3節)。これが理由だった。王様はがっかりする。そして、いったんは引き下がる。いったん引き下がったのはナボトの主張にはそれなりの説得力があったからだろう。でも、引き下がったものの、気持ちが治まらないのである。機嫌が悪く、食事ものどを通らない。ベッドに横たわってふさぎ込んでいたという。そして、これを見た王妃のイゼベルが、王をたしなめるところから、おそろしいことが始まる。異教徒であるイゼベルには、ときには王でさえ自分の願いを取り下げざるを得ないというイスラエルの論理が分からないのだ。そこで、「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」(7節)と言って、ナボトを殺す陰謀をめぐらすのである。
 それは人間性のかけらもない残忍極まりない陰謀だった。ならず者を二人雇い、「ナボトは神と王とを呪った」という偽証をさせ、ナボトに冒涜罪の汚名を着せて石打の刑にしてしまうのである。そして、ついに、ナボトを殺して、彼の土地を手に入れた。「ナボトのぶどう畑」。これは実にやりきれない話である。許しがたい権力の乱用、恐るべき暴挙であった。読んでいると怒りがこみ上げてくる。この後、アハブには厳しい神の罰が下り、王朝の滅亡が預言されるが、それにしてもこの話は嫌な話である。

 ただそれだけに、ナボトの純粋さが際だっているのではないだろうか。どうして、ナボトは自分の土地を手放すことができなかったのだろうか。ぶどうの栽培は楽な仕事ではない。収穫を得るにはかなりの労苦が必要になる。ときには期待した収穫が得られないこともある。山梨のぶどう園の主人に話を聞いたことがあるが、ぶどうの栽培というのは経験と勤勉を要するたいへんな仕事だという。楽でないので跡継ぎがないと言っていた。だから、もし、畑をお金に換えれば、一生楽に暮らしていけたかもしれないのである。しかし、ナボトは断じてそれをしなかった。そのわけは、どこにあるかというと、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」という、ナボトの言葉の中に込められている。
 イスラエルの人々にとって、土地は勝手に処理できる私有財産ではない。土地はもともと神様のものであって、人はそれを神様からあずかっているのだ。それは、神様から受けて先祖代々守ってきたもの、それは神の恵みの具体的なしるしなのである。「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない」(レビ二五・二三)と律法にも言われているように、土地を簡単に手放すということは神から離れる生き方にほかならなかった。だから、要するに、ナボトは地上で楽に暮らすことよりも、信仰を守って苦労するほうを選んだのだ。聖書の中でこのナボトという人も、神に誠実に生きた僕の代表と言ってもいいのではないだろうか。このナボトの生き方の中に私たちが今日倣うべき大切なものが隠されているように思う。

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