夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

『たかまち』巻頭言について

2018-07-28 20:29:12 | 「たかまち」巻頭言
 『たかまち』とは日本基督教団浜松教会の「教会報」です。住所が高町であることからこの名前が付けられました。まさに浜松駅から西に向かう小高い丘に教会はあるのです。浜松教会には8年在任しましたが、その間に私が書いた『たかまち』巻頭言がここに集められています。 . . . 本文を読む

キリストのために苦しむ

2018-05-08 10:33:05 | 「たかまち」巻頭言
 当時は戦時中であり、当局は教会を厳しく監視していた。そんな折、特高警察に呼び出され、尋問を受けたのである。そして、うっかり歯が痛いと口にしてしまったのがまずかった。そう言ったために、虫歯だけでなくすべての歯を抜かれてしまったのである。クヤシカッタデスと言ったときの甲高い声が今でも耳に残っている。そのときクラスは急にシーンとなった。そして、チャプレンの歯が年齢に似合わず真っ白である理由がこのとき初めて分かった。そして思うのである。あの迫害の経験がチャプレンの信仰を目覚めさせ強くしたのではないかと。 . . . 本文を読む

オチケンの変貌

2018-05-08 10:23:56 | 「たかまち」巻頭言
 信仰生活は絶えざる悔い改めだと言われる。御言葉を通して神様と対面していると、今までの自分が嫌になってくる。そして、キリストにかたどった新しい自分に生まれ変わることをせつに求めるようになる。そんなことを繰り返すうちに我々は変えられて行き、自ずと周りの人たちにも信仰の証しとなるのである。教団信仰告白にある「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義に果を結ばしめ」とはそういうことであろう。 . . . 本文を読む

人賢くて神を求めず

2018-05-08 10:02:08 | 「たかまち」巻頭言
 評論家の佐高信が「朝日歌壇」で目した斎藤たまいの歌は「伝道者の寂しき極み夫(つま)に見ぬ、人賢くて神を求めず」というものであった。彼が書く評伝には夫がどんな牧師だったかはあまり書かれていないが、忍耐強く職務を果たす実直な人物だったと思われる。時代は教会にとって厳しく、戦時中は周囲から白眼視され、夫は召集されて戦地に赴き、シベリヤ抑留をへてようやく帰ってきた。戦後は再び聖公会司祭のつとめに復帰した。妻たまいはそんな夫の後ろ姿を見ながら、伝道者の寂しさを歌う。人はおのれの知恵と力に頼って、神をもたずになんとか生きていこうとしていると。 . . . 本文を読む

知らず知らずのうちに、いつの間にか

2018-05-08 09:53:06 | 「たかまち」巻頭言
 キリストを心に受け入れ、生ける神を拠り所に生きるようになると、昔の生活がくたびれた靴のように思えてくる。どうして今まで自分は信仰なしに平気で生きて来られたのだろうか、と。 パウロは言った。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(Ⅱコリ3:18 )。入信後、人は聖霊によって新たに造りかえられていく。知らず知らずのうちに、いつの間にか。 . . . 本文を読む

肉体を持って生きているとは

2018-05-07 21:12:28 | 「たかまち」巻頭言
 私たちは肉体を持って生きている。肉体の中に聖霊を宿している。だから信仰生活が身につくように修練が必要なのだ。祈ること、聖書に親しむことを欠かしてはならない。とりわけ礼拝出席は心とからだの全体に関わっている。これらは基本練習と言えるだろう。途中で怠りが生じると、うまく成長できず、我流から抜け出せなくなる。厳しいことを言うようだが、肉体を持って生きているとはそういうことなのだ。救いに関わることだからくれぐれも注意しよう。パウロは言った。「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」(1コリ9:27 口語訳)。 . . . 本文を読む

聖餐式―キリストとの生ける交わり

2018-05-07 21:05:40 | 「たかまち」巻頭言
 人は聖書を通して信仰の世界の素晴らしさを知る。さらに洗礼に導かれて教会に加えられる。我々は一生聖書を学び続けなければならない。しかし神様はそれに加えて、キリストとの交わりを保つもう一つの恵みの手段を与えてくださった。それが聖餐である。そのパンと杯にあずかるとき、キリストは愛の御手でしっかり我々を包んでくださる。これは御言葉だけでは味わえない固有のものである。 . . . 本文を読む

「ざんげの祈り」なしには

2018-05-07 20:58:15 | 「たかまち」巻頭言
 この7月から礼拝に「ざんげの祈り」を加えることにした。第24代卯尾憲三牧師が最後の10年間この祈りの要素を取り入れておられたことを知ったのがきっかけである。「ざんげの祈り」なしに礼拝は始められない。だがその頃の祈りの文言をどうしても見つけることはできなかったので、主日礼拝では「沈黙の祈り」のかたちで各自がこころで祈ることにした。ある礼拝学者いわく、「沈黙の祈りほど完全に個人的表現と共同的表現を結びつけた公的祈りの方法はない」。なお「罪の赦し」の宣言は用いていないが、次の「使徒信条」の告白の中で共に確認することができるであろう。 . . . 本文を読む

生まれる前から神さまに

2018-05-07 20:51:16 | 「たかまち」巻頭言
 教会学校で使う『こどもさんびか改訂版』に「生まれる前から神さまに守られてきた友だちの誕生日です、おめでとう」という歌がある(116番)。これを聞くと何故か自分は洗礼のことを連想してしまう。  私は1949年4月30日に洗礼を受けた。幼児洗礼だった。最近調べてみると、麻布にあるその聖堂は1945年5月14日の東京山の手大空襲で全焼し、そのころ信徒宅や仮礼拝堂を転々としていたらしい。ゼロ歳の時だから . . . 本文を読む

知っているつもり

2018-05-07 20:43:33 | 「たかまち」巻頭言
 長い信仰生活の中で知っているつもりになって、本当のことを見過ごしていることがないだろうか。知っているつもりにならないで、聖書の重要な物語や出来事を何度も読み返してみるとよい。きっと新しい発見をするであろう。我々牧師もそうだ。説教の準備のなかで、知っているつもりのことが新たな光を帯びて迫ってくることが少なくないのである。パウロがベレアで出会ったユダヤ人たちは、「テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(使17・11)という。我々もこの姿勢を失ってはならないと思う。 . . . 本文を読む