夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

ペトロと愛弟子

2012-04-28 16:50:54 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書21章15~25節。大変興味深い点は、ここにはペトロと並んでイエスが愛されたもう一人の匿名の弟子が登場してくることである。ペトロと愛弟子という個性のある二人の人物が最後の最後で復活のイエスのまなざしの中に置かれているのである。ということは、この二人の弟子の重要性と関係性を、この最後の箇所は読者たちに知らせようとしているのではないだろうか。ひとつの象徴的場面ということができる。では、全体としてこの場面は何を伝えたいのであろうか。愛弟子の教会はヨハネの手紙から分かるように、愛弟子なき後、異端的分派が起こって存亡の危機に立たされていた。そこに偉大なカリスマを戴く単立型の教会の弱さと限界があった。だから、愛弟子の伝統は大事に守っていかなくてはいけないけれども、それだけになって孤立しないように、そしてペトロの権威のもとにある全体教会の交わりに合流していく必要があるということなのではないかと思うのである。 . . . 本文を読む

復活のイエス、岸辺に立つ

2012-04-21 21:54:48 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書21章1~14節。この場面は弟子たちの生まれ故郷、ガリラヤ湖畔での出来事である。ティベリアス湖とはガリラヤ湖の別名だ。イエスと過ごした三年あまりの日々が瞬く間に終わり、弟子たちはまたイエスと最初に出会った場所、ガリラヤ湖畔に戻ってきた。そこには、ペトロをはじめ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たちなど、七人の弟子が集まっていた。彼らがここに戻ってきてできることはと言えば、舟に乗って漁に出かけることしかなかった。それは彼らのもとの生業であった。そこで、ペトロが漁にでも行くかと腰を上げると、他の弟子たちもついてきて、一緒に舟に乗ったと言われている。しかし、その夜は何もとれなかったのである。復活のイエスは、「何もとれなかった」無力な弟子たちに声をかけておられる。そして、もう一度、今度は御自分の導きで網を打つよう命じておられる。そして、主が命じたとおりにもう一度やってみると、今度はすばらしい結果がもたらされたのである。 . . . 本文を読む

見ないで信じる者は、幸いである

2012-04-20 23:04:43 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネにより福音書20章19~31節 ヨハネ福音書が疑い深いトマスの物語を通して言いたいことは、見ないで信じることの大切さということである。トマスと今日の我々とは一つの点でよく似ている。それは最初の復活顕現に立ち会うことができなかったということである。トマスも我々もある意味で遅れてきた人なのである。最初の復活顕現の日に集会の場に居合わせることができなかった。でも復活の主は、その遅れてきた人を見捨てないで、彼らにも御自分を現したもうお方だということだ。そして、主はトマスに対しては目で見える形で復活の確証をお与えになったが、その後の我々にはもう少し別な形で復活を明らかにしようと仰っているのではないだろうか。それが「わたしを見たので信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」という言葉に示されている。 . . . 本文を読む

イースターの日取り

2012-04-07 20:06:32 | キリスト教
 今年のイースターは、明日4月8日である。クリスマスとちがって毎年日にちが変わるので、一般の方には分かりにくいと思う。イエスの十字架の死が過越の祭の直前で、復活がその三日後の「週の初めの日」(今日の日曜日)なので、それに合わせて算定方法も決められている。過越の祭はユダヤ暦(太陰太陽暦)でニサンの月の14日(満月)である。そこで、紀元325年のニカイア会議では、ニサンの月に春分が来ることから、「春分の日の次の満月の後の最初の日曜日」ということになった。 . . . 本文を読む

「イエスの復活ー婦人よ、なぜ泣いているのか」

2012-04-07 18:46:20 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書20章1~18節。ヨハネ20章の復活記事で、最初に復活のイエスに出会うのは、マグダラのマリアである。ヨハネ福音書は彼女にスポットを当ててイエスのお墓の場面を描いている。イエスの墓に異変が起こったことの第一発見者はこのマリアであった。墓を塞ぐ大きな石が取り除けてあったのである。そこで、マリアは急いで弟子のところに行って報告をし、イエスの弟子の二人が急いでやってきて、彼らも墓の中が空になっているのを確認している。墓の中にはイエスの体を包んだ亜麻布と、頭にかぶせた布が残っているだけであった。しかし、マリアはこのことの本当の意味を理解できず、誰かがイエスの遺体を運び去ったと考えて、ただ泣くばかりであった。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と二度にわたって言われているとおりである。 . . . 本文を読む

父がお与えになった杯

2012-04-06 16:12:43 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書18章1~11節。ここは福音書の中の決定的な場面である。弟子の一人に裏切られ、何の罪もないのに捕らえられていくイエス。弟子たちを残してたった一人引っ立てられていくイエス。捕らえられたらどういうことになるかは分かり切っていた。そして、弟子たちは強大な敵の前にまったく無力であった。このあまりにも悲しい出来事に、ペトロの心は張り裂けそうになっていた。そこで、彼は自分を見失い、激情に身を委ね、愚かにも、大祭司の僕の耳を切り落とすという何の益にもならないことをしてしまったのである。  しかし、イエスの逮捕はイエスの敗北を意味するものなのだろうか。ヨハネ福音書が一貫して主張していることはそうではないということだ。ヨハネ福音書では、イエスの死は栄光の時であって、イエスは自分の死を神による定めとして冷静に受けとめていた。 . . . 本文を読む