それは、まもなくイエスが十字架に架かろうとするときであった。エルサレムの近くのベタニヤでイエスのために晩餐会が開かれた。そこで一人の女性がイエスの足に純粋で非常に高価なナルドの香油を塗ったというのである。それもふんだんに惜しむことなく全部使ってしまった。普段は宝物のように保管し、少しずつ少しづつ大切に使っていたナルドの香油だった。それをそのとき彼女はイエスのためにいっぺんで使い切ってしまったのだ。奇想天外の驚くべき行動であった。ここでイエスはこう仰った。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」(一二・七)。イエスは彼女の行動を十字架の死の予告として意味づけておられる。マリアはまもなくエルサレムで起こるその出来事に備えて、葬りの準備をしてくれたというのである。マリア自身はそこまで考えていなかったかもしれないが、イエスによれば神様のご計画の中で彼女の行動はそういう意味をもつということであった。 . . . 本文を読む
ヨハネ福音書が書かれた時代、すでに誰も復活のイエスを見ることはできなかった。今日の私たちと同じである。しかし復活のイエスをじかに見たり触れたりする必要はないのである。じかに触れようとしたマリアは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われてしまった。これはイエスとの本当の出会いはもはやそういうかたちで実現するものではないということだ。イエスとの本当の出会いは聖霊の働きによって、これから後すべての人に開かれているということだ。イエスの姿を見ることのできない時代にも、イエスとの交わりをもつことに何一つ欠けるものはないのである。むしろ聖霊が降ってくる後の時代にこそ、生きたイエスとの本当の交わりが始まるということである。 . . . 本文を読む
ルカによる福音書二三章三二~四三節。王と言えば当時の人々は、強大な力をもち、意のままに民を支配する専制君主を思い描いていた。主イエスもルカ二二章二四節で「異邦人の間では、王は民を支配し、民の上で権力を振るう者が守護者と呼ばれている」と言っておられる。また、ユダヤ人は当時、異教徒の支配を駆逐する王をきたるべきメシアとして期待していた。でも、イエスはこういうこの世の王とはまったく違う形でメシアの使命を果たすというのだ。他者を救うために己を空しくし、自分を犠牲にして死に至るまで人に仕えるメシア。十字架上でイエスが明らかにしているのは、まさにこういう王の姿であった。
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出エジプト記三章一~一五節。モーセははある不思議な導きでエジプトの王宮で育てられたが、青年時代に民族意識に目覚める。そして、ヘブライ人の同胞がエジプト人に虐待されているのを見て、そのエジプト人を打ち殺すというあやまちを犯してしまうのである。そのために、追われる身となり、親類のいるミディアンの地に身を寄せていることになった。モーセはそこで羊飼の生活をして生計を立て、ツィポラという女性と結婚し、一児を設けた。長い年月が経過する。自分の過去は思い起こすことも苦痛だっただろうし、同胞のために歴史の表舞台に立つことなど夢にも考えなかったろう。今はモーセは寄留者として生きる人物であった。エジプトの王宮で身に着けた知識も教養も今は何の役にも立たない。ただ生き延びるだけの生活を余儀なくされていた。ところが、神様はモーセを忘れておられなかった。 . . . 本文を読む
創世記一八章一~一六節。本日の一八章では、神の使いの言葉を聞いて、今度はサラがひそかに笑うのである。「この年寄りの自分に子供が産まれるですって? そんなはずがないじゃありませんか」ということだ。そして思わず笑ったのだ。自分は老人だ。子を生める体ではなくなっている。主人も年老いてしまった。来年の今頃男の子を産むなどと言われても、笑うしかなかったのである。しかし、主の使いは言う。「主に不可能なことがあろうか」。
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創世記九章八~一七節。この世界は神様の憐れみによって支えられ守られている。そして、このことをしっかりと表すために、神様は契約のしるしを与えてくださった。それが虹であった。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める」(一二~一五節)。
あの美しい虹が出たときに、神様は永遠にあの保存の契約を心に留め、覚えていてくださる、そのことを信じて人類は、悪のはびこる世にもめげずに、前向きに明るく歩むことが許されているのである。ノアの洪水物語はそのことを我々に伝えようとしているのではないだろうか。そこが旧約聖書の福音と言われるゆえんなのである。
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ヨハネの黙示録七章一~一二節。当時は本当の救い主が隠され、栄光や譽れは皇帝のものだと主張され、貨幣にも「最高の神、救い主、皇帝ドミティアヌス」と刻まれていた。こういう地上の現実が過ぎ去り、勝利が本当の救い主のもとに戻るという宣言がここにあるのではないだろうか。いやどんなに敵対者が勝ち誇っても、最後はまことの神が勝利するという宣言でもある。この逆転の思想が黙示録に特徴的なものである。
この最後の勝利を仰ぎながら、我々も地上の信仰生活を戦い抜くのである。今のつらい現実は最終的なものではない。今の苦難こそ最後の勝利への通過点なのだ。恐れたり萎縮したりしないで、最後の勝利を確信して忍び通せと、ヨハネ黙示録は教会を励ましているのである。
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コロサイの信徒への手紙一章二一~二九節 一度は建てられた教会の土台が崩されていく。こういう問題と取り組むことは忍耐のいることである。パウロを大いに消耗させたであろう。でも彼はそれをしないわけにはいかなかった。コリントでもフィリピでもパウロは同じような戦いを余儀なくされた。その都度、彼は手抜きせずに誠実に手紙を書いて問題に関わり、群れの信仰が健全化するように心を砕いたのである。それはパウロにとって想像以上に厳しい戦いではなかったろうか。まさに「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」ような働きであった。
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列王記上二一章一~一六節 私たちにははいくつかの大切な課題がある。家族に対する責任とか、社会に対する責任といったものもある。数え上げれば切りがない。だが、信仰生活に召された者にとって一番大切なことは、神様に対する責任、神が与えてくださった恵みに対して誠実に生きるということではないかと思う。神が与えてくださったものを、粗末にしてはならないということである。それを大切に保ち、守っていくことが求められている。
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コリントの信徒への手紙一 一二章二七節~一三章一三節。本日読まれたコリントの信徒への手紙一三章は、「愛の賛歌」などと呼ばれて、有名な箇所の一つである。教会形成に必要なのは愛なのだ。愛が最高の賜物で、愛が伴っていなければ、どんな熱心もすぐれた賜物も教会に益をもたらすことができない。そんなことが流れるような文体で述べられている。愛の大切さを知らされる箇所である。 . . . 本文を読む