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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

律法からの解放

2012-08-26 19:05:41 | 日曜日のメッセージ
 ローマの信徒への手紙7章1~6節。ここの律法論議はなかなか難しいものがある。律法そのものは文句なく神の善い贈り物なのだけれども、その善なるものが人間の罪の作用によって無力になり、正しく働かなくなっている。律法がかえって罪を喚起し、ますます人間を罪の奴隷にしてしまっている。そんなことを言おうとしているのである。また、ファリサイ派のユダヤ人だったパウロは、その律法主義の中に欺瞞的なもの、律法の本来の意図とは違うものを感じざるを得なかったのではないだろうか。律法が命の道として与えられることによって、人はこれを利用して自分の力で永遠の命を確保しようともくろみ始めるのである。つまり、ポイント計算を始めるのである。ファリサイ派の安息日律法など最もポイント計算しやすいシステムである。234箇条もある戒律をどのくらい順守できたかで、自分が今どのくらい神の前に義を確保できているかが分かるからである。それはもはや神の栄光をあらわすのではなく、自分の義を自分で増し加えようというむさぼりの世界である。 . . . 本文を読む

肉の人と霊の人

2012-08-17 18:56:43 | 日曜日のメッセージ
 コリントの信徒への手紙一 2章11節~3章9節。パウロはこの三章で「霊の人」と「肉の人」を対照的に描いているが、ここには少々皮肉が込められていると言われている。自分たちはすでに完全になった、「霊の人」となったと言っているコリントの人々を、パウロは君たちはまだ「肉の人」だと非難しているからである。三章一節では「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」と言う。彼らは自分たちを「霊の人」になったと有頂天になっていたのであろう。が、実際には人間的なねたみや争いが絶えず、相変わらず「肉の人」であることを暴露しているではないかと三節以下では指摘しているのだ。目を覚まして冷静になりなさいと訴えているのである。そして、自分が伝えた十字架の福音に立つことを止めたから、こういう結果になるんだとパウロは言いたいのだろうと思う。 . . . 本文を読む

世に打ち勝つ信仰

2012-08-11 17:40:22 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネの手紙一5章1~5節。ヨハネの手紙の一つの特色は、教会に対して兄弟愛を強く求めているということである。この手紙を読むと著者が至るところで、「愛し合いなさいよ」「くれぐれも愛し合いなさいよ」と言っているのを感じる。信じる仲間同士がよい関係を保ち続けること、お互いのために配慮を厭わないこと、互いに重荷を負い合うこと、そういう愛の姿勢が根本的に重要であると、この手紙は口を酸っぱくして述べているのである。それが教会形成の柱だと考えるからだろう。それなしに真実の教会にならないということだ。 . . . 本文を読む

人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ

2012-08-04 19:14:43 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書6章41~59節。ヨハネ福音書の6章では五千人のパンの奇跡に始まり、それに続いてイエスが命のパンであるという講話が語られてきた。イエスが永遠の命に至るパンであると信じるということは、そのことを証しする「言葉を聞いて信じる」ということであろう。ところが、51節以下のところから、少し様子が変わっている。そこからは、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」とか、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」といった直接的な飲食をほのめかすことが言われ始めるのだ。教会はこれを聖餐を指していると理解してきた。 . . . 本文を読む

永遠の命に至る食べ物

2012-07-31 18:25:49 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書6章22~27節。ヨハネ福音書6章は五千人のパンの奇跡のあと、命のパンに関するイエスの講話が長く続く。本日の個所の27節によると、イエスという命のパンの特色は、「いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物」だということである。しかも、そのあとの「父である神が、人の子を認証されたからである」という言葉から分かるように、神様の折り紙付きで、間違いがないというのである。イエスこそ神に認められた正真正銘の命のパンだと言っているのである。 . . . 本文を読む

暴風エウラキロンに襲われる

2012-07-31 18:21:45 | 日曜日のメッセージ
 使徒言行録27章33~44節。著者はパウロが船でローマに護送される過程を詳しく伝えている。その時はもう航海の危ない季節になっていたようだ。パウロが乗った船は初めから、向かい風に悩まされて思うように進まないのである。途中の港で、パウロは危ないから先を急がない方がいいと忠告するが、引率の百人隊長がこれを無視したのが間違いのもとだった。そこを出るとまもなく、激しい暴風に襲われて、乗組員はパニックに襲われる。何日間も暴風が吹きすさび、海は荒れ狂い、「助かる望みは全く消えうせようとしていた」(20節)と書かれている。人々は絶望のあまり、食事も喉を通らない有様だった。船の転覆は時間の問題であり、乗員乗客は海の藻屑と消える運命にあった。しかし、この完全な絶望状態から乗員乗客は不思議にも助けられたということを使徒言行録27章は伝えるのである。 . . . 本文を読む

死から命へと移っている

2012-07-14 18:16:11 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書5章19~36節。将来の復活の時を信じることは大切である。しかし、いつ来るとも分からないそれを思い描いても、まだ分からないことばっかりである。考えすぎて空想的になっても益がない。それよりも、今この時、死から命に移って生きる喜びを体験することが必要なのである。ヨハネ福音書はそのことをむしろ推奨している。我々は主イエスの声を聞き、主イエスというお方を神と等しい方と信じて救われた。そのことで一体何が起っただろうか。安心して神様に祈れるようになった。礼拝に集うことが喜びとなった。何か人のためになることをしたいと思うようになった。明日に対して、不安以上に神の導きを信じて安んじられるようになった。いろいろあると思う。その一つ一つが、永遠の命に生きる者とされたということのしるしなのである。 . . . 本文を読む

ドルカス、生き返る―キリスト教葬儀の原型

2012-07-08 16:09:18 | 日曜日のメッセージ
 使徒言行録9章36~43節。ドルカスは教会を愛の業でもって明るくするすばらしい女性信徒だった。ところが、突然病気で死んでしまうのだ。なんというあっけないことだろうか。教会にとってこれは大変な痛手だったと思う。まさに途方に暮れる体験であった。人々が嘆き悲しむ様子が痛いほど伝わってくる。世話になっていたやもめたちは、「泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた」と言われている。ドルカスの生前の働きを偲び、涙ながらにその死を惜しんでいるのだ。この場面は、ある意味で教会の前夜式か葬儀の場面と言えないだろうか。 . . . 本文を読む

ユダヤ人と異邦人からなるひとつの教会

2012-06-30 20:35:08 | 日曜日のメッセージ
 エフェソの信徒への手紙2章11~22節。教会に異邦人キリスト教徒が増えてくると、ユダヤ人キリスト教徒との間に意見の相違が起こってきた。ユダヤ人キリスト教徒の中には、こう考える人がいた。キリスト教というのはユダヤ人の中から出てきたものなのだから、異邦人がクリスチャンになる場合には、彼らも割礼を受けてモーセの律法を守るべきだ、いったんユダヤの伝統に帰依してからでないと、正式に新しい神の民にはなれないという考え方であった。こういうユダヤ主義的見解がアンティオキアの教会に持ち込まれたときに大問題が起こる(使15・1~2)。パウロとバルナバはこれに猛反対して論争になり、ついにその調停のためエルサレムで使徒会議が開かれるに至る。そして、結果的にユダヤ主義者の要求は退けられることになったのである。これで、異邦人問題は解決したかに見えた。しかし・・・ . . . 本文を読む

地上には永遠の都はない

2012-06-23 18:32:16 | 日曜日のメッセージ
 ヘブライ人への手紙12章18~29節。本日の個所で最後、29節で「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」と裁きの警告が語られている。これは申命記4章24節の引用である。もともとは「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである」となっている。そして、これが申命記のどういう文脈で語られたかというと、イスラエルの背教、偶像礼拝を戒める文脈である。「あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい」という言葉に続いてそう語られている。イエス・キリストに対する信仰から離脱することは、悪しき偶像礼拝にも等しい罪であり、神の怒りによって滅びに定められることを覚悟しなければならないということだろう。厳しい言葉である。でも、この厳しさは、絶対に信仰を捨ててはならないという愛の警告の裏返しであろう。 . . . 本文を読む