夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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死から命へと移っている

2012-07-14 18:16:11 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書5章19~36節。ここで永遠の命の希望は二つの段階に分けて記されている。一つは、24~25節のところで、今現在信仰において我々に与えられている命のことであり、もう一つは28~29節以下に示されている終末の時に起こる将来的な命の完成のことである。
 この将来の終わりの日については、クリスチャンはユダヤ教から引き継いだかたちで、復活の希望を抱いていた。使徒言行録21章15節でパウロが「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」と述べていることから明らかである。「正しい者も正しくない者もやがて復活する」というのなら、信仰も善い業もいい加減にしていてもいいのかと思われるかもしれないが、そういうことではない。ヨハネによる福音書の5章28節以下ではこう言われているのである。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」。ここで「善を行った者」「悪を行った者」と伝統的用語が使われているが、ヨハネ福音書的な理解ではイエスを信じ告白した者とイエスを受け入れずに拒んだ者ということであろう。前者は命を受けるために復活し、後者は裁きを受けるために復活すると言うのだ。裁きを受けるとはイエス・キリストとのつながりが絶たれて神の国から除外されるということだろう。 しかし、ヨハネ福音書の場合はそれだけではない。今すでに永遠の命ははじまっていて、信徒の生活に力を及ぼしているというのだ。それが24節以下のところなのである。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」。信じた者は、もうすでに死から命に移って、永遠の命そのものを生きている。
 将来の復活の時を信じることは大切である。しかし、いつ来るとも分からないそれを思い描いても、まだ分からないことばっかりである。考えすぎて空想的になっても益がない。それよりも、今この時、死から命に移って生きる喜びを体験することが必要なのである。ヨハネ福音書はそのことをむしろ推奨している。我々は主イエスの声を聞き、主イエスというお方を神と等しい方と信じて救われた。そのことで一体何が起っただろうか。安心して神様に祈れるようになった。礼拝に集うことが喜びとなった。何か人のためになることをしたいと思うようになった。明日に対して、不安以上に神の導きを信じて安んじられるようになった。いろいろあると思う。その一つ一つが、永遠の命に生きる者とされたということのしるしなのである。
 主イエスの声を聞かなかった頃の自分、自分のことしか考えることができず、神様の御心など考えたこともなかった自分は、実は死んだ者だったのである。しかし、そのような私に向かって、主イエスは声をかけてくださった。「起きよ」「わたしに従いなさい」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。この御声を聞き、この御声に従う者とされ、新しくされたのである。25節「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」。こう主イエスは告げられる。今がその時なのだ。死から命へと生きる者とされるのは、終末の時にだけ起きることではない。この礼拝のたび、主の御言葉が語られるたびに起きるのだ。この礼拝の場において、我々は死んだ者から永遠の命を生きる者へと移っていく。現在の信仰生活の場で、今と永遠とが交差して一つになっている。これがヨハネ福音書独自のメッセージなのである。

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