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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

肉となって来られた神の子

2012-06-16 16:27:25 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネの手紙一 2章22~29節。さて、本日のヨハネの手紙の個所を見ると、最初の頃の教会にもすでにイエス理解をめぐる混乱があったことが知られる。詳しい正確なことは分からないが、この手紙から判断できることは、キリストの必要は認めるものの、そのキリストが肉体をとって現れたことを否定する人々だったと思われる。そのようなイエスの信じ方では、神様と人間の関係は繋がらない。肉体を取らないイエスは仲保者にならないからである。ヨハネの手紙は、2章23節のところでこんな風に言っている。「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています」。神とつながることが救いなのである。 . . . 本文を読む

夜イエスのもとに来たニコデモ

2012-06-13 18:53:54 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書3章1~15節。きょうのヨハネ福音書にニコデモという人が出てくる。この人はユダヤの最高会議の議員でとても立派な人だった。ヨハネ福音書にだけ出てくる人物である。ニコデモの偉いところは、多くのユダヤ人の仲間がイエス様を嫌って除け者にしようとするなか、イエス様の味方をしたことだ。でも、ニコデモには臆病なところもある。イエス様のところに行くのを誰にも知られたくないと思った。知られたら仲間から変に思われるし、今までのような尊敬を得れなくなるかもしれない。だから、「夜」こっそりと会いに行った。イエス様の弟子になろうか、それとも今はやめておこうか、はっきり自分の態度を決められないでいた。その意味で、ニコデモはわたしたち一人一人の姿である。 . . . 本文を読む

父と子と聖霊

2012-06-02 17:31:40 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書14章8~17節。もとをただせば、三位一体の教えは、イエスと御父がひとつでありたもうという聖書の真理に端を発している。そして、このことを明確に語る福音書が、ヨハネによる福音書なのである。大雑把な言い方になるが、最初の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が、主にイエスの人間性を強調しているのに対して、ヨハネ福音書はイエスの神性を強調している。本日の14章においても、フィリポがイエスに「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは仰った。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(14・9~10)。ここにある「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」という言い方が、今日の箇所で二回も出てくるのである。これはイエスと御父の一体性を表す言葉にほかならない。 . . . 本文を読む

一同は聖霊に満たされた

2012-05-27 20:51:59 | 日曜日のメッセージ
 使徒言行録2章1~11節。ペンテコステの日、聖霊が降ってきた時の様子はどのようだったろうか。ここに描かれる光景は、今日主流の教会がもつ穏やかなイメージとはかけ離れている。聖霊は静かに降ったのではなく、まさに激しく降ったのである。まず、聖霊は激しい風として弟子たちの上に降ってきた。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」と、2章1~2節で書いてある。風の力というものは侮れないものである。樹木をなぎ倒したり、瓦や屋根を吹き飛ばしたりすることもある。そんな強い風のイメージで、弟子たちの上にくだった聖霊が描かれているのである。こんな力強い聖霊が弟子たちを造りかえて、福音を語り得る者としてくださった。そして、その上で御言葉を宣べ伝えなさいと命じておられる。我々は伝道しうる者とされたのだから、怖じけず怠らずにそれを行うべきなのである。 . . . 本文を読む

生きた水が川となって

2012-05-24 15:43:26 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書7章32~39節。ここでキリストは次のように言っている。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という38節の言葉だ。これはなんだか不思議な言葉ではないだろうか。イエスを信じたならば、渇きをいやす生きた水が川の流れとなって、その人の中からあふれ出すようになると言っているのだ。何のことか、これだけではよく分からないが、次に福音書記者はこれを解説して言っている。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」(39節)。つまり、イエスの昇天後の教会に注がれる聖霊の溢れるばかりの豊かさがここで約束されているわけだ。「イエスがまだ栄光を受けていない」というのは、十字架の御業を果たして父のもとに帰っていないという意味である。 . . . 本文を読む

しかし、勇気を出しなさい

2012-05-12 20:36:06 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書16章25~33節。イエスは「あなたがたには世で苦難がある」と仰った。我々はこの地上の信仰生活では苦難を避けて通れないのである。なぜなら、我々の信仰はこの世の有様としばしば相容れないからである。妥協することができない事態が起こるからである。また、信仰ゆえに誤解されたり、家族や親しい人との間に軋轢が生じたりするかもしれないのである。信仰生活もハッピー、この世の生活もハッピー、何もかもうまくいくという具合にはなかなかならない。それが実状なのである。「それは覚悟しなさい」と、イエスは仰るのである。  しかし、それでも大丈夫だ。安心せよ。元気を出しなさい。「私がまず先に苦難を通って勝利しているのだから」。これが本日の箇所で主イエスが仰りたいことの結論である。 . . . 本文を読む

世に憎まれても

2012-05-10 19:15:28 | 日曜日のメッセージ
  ヨハネによる福音書15章18~27節。ヨハネ福音書では、キリストを受け入れない人々は「世」(コスモス)という言葉で呼ばれている。本日の個所でも頻繁に使われている。「世」というのは神様によって創造され存在を許されながら、神様から離れ、神様との関係を拒んでいる人々のことである。そして、神様との関係を拒んでいるので、神様のもとから独り子が遣わされてもこれを受け入れることができないのである。1章のプロローグの中ですでにこういう「世」の本質が明らかにされていた。1章10節以下で、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と言われていた。これは直接にはイエス・キリストがお膝元のユダヤ人に受け入れられなかったということを示しているが、すべての時代に当てはまることであろう。そして、このように神が遣わした救い主を拒むこと、このことこそヨハネ福音書によるならば、最大にして最も深刻な罪なのである。 . . . 本文を読む

ペトロと愛弟子

2012-04-28 16:50:54 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書21章15~25節。大変興味深い点は、ここにはペトロと並んでイエスが愛されたもう一人の匿名の弟子が登場してくることである。ペトロと愛弟子という個性のある二人の人物が最後の最後で復活のイエスのまなざしの中に置かれているのである。ということは、この二人の弟子の重要性と関係性を、この最後の箇所は読者たちに知らせようとしているのではないだろうか。ひとつの象徴的場面ということができる。では、全体としてこの場面は何を伝えたいのであろうか。愛弟子の教会はヨハネの手紙から分かるように、愛弟子なき後、異端的分派が起こって存亡の危機に立たされていた。そこに偉大なカリスマを戴く単立型の教会の弱さと限界があった。だから、愛弟子の伝統は大事に守っていかなくてはいけないけれども、それだけになって孤立しないように、そしてペトロの権威のもとにある全体教会の交わりに合流していく必要があるということなのではないかと思うのである。 . . . 本文を読む

復活のイエス、岸辺に立つ

2012-04-21 21:54:48 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネによる福音書21章1~14節。この場面は弟子たちの生まれ故郷、ガリラヤ湖畔での出来事である。ティベリアス湖とはガリラヤ湖の別名だ。イエスと過ごした三年あまりの日々が瞬く間に終わり、弟子たちはまたイエスと最初に出会った場所、ガリラヤ湖畔に戻ってきた。そこには、ペトロをはじめ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たちなど、七人の弟子が集まっていた。彼らがここに戻ってきてできることはと言えば、舟に乗って漁に出かけることしかなかった。それは彼らのもとの生業であった。そこで、ペトロが漁にでも行くかと腰を上げると、他の弟子たちもついてきて、一緒に舟に乗ったと言われている。しかし、その夜は何もとれなかったのである。復活のイエスは、「何もとれなかった」無力な弟子たちに声をかけておられる。そして、もう一度、今度は御自分の導きで網を打つよう命じておられる。そして、主が命じたとおりにもう一度やってみると、今度はすばらしい結果がもたらされたのである。 . . . 本文を読む

見ないで信じる者は、幸いである

2012-04-20 23:04:43 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネにより福音書20章19~31節 ヨハネ福音書が疑い深いトマスの物語を通して言いたいことは、見ないで信じることの大切さということである。トマスと今日の我々とは一つの点でよく似ている。それは最初の復活顕現に立ち会うことができなかったということである。トマスも我々もある意味で遅れてきた人なのである。最初の復活顕現の日に集会の場に居合わせることができなかった。でも復活の主は、その遅れてきた人を見捨てないで、彼らにも御自分を現したもうお方だということだ。そして、主はトマスに対しては目で見える形で復活の確証をお与えになったが、その後の我々にはもう少し別な形で復活を明らかにしようと仰っているのではないだろうか。それが「わたしを見たので信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」という言葉に示されている。 . . . 本文を読む