夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

暴風エウラキロンに襲われる

2012-07-31 18:21:45 | 日曜日のメッセージ
 使徒言行録27章33~44節。著者はパウロが船でローマに護送される過程を詳しく伝えている。その時はもう航海の危ない季節になっていたようだ。パウロが乗った船は初めから、向かい風に悩まされて思うように進まないのである。途中の港で、パウロは危ないから先を急がない方がいいと忠告するが、引率の百人隊長がこれを無視したのが間違いのもとだった。そこを出るとまもなく、激しい暴風に襲われて、乗組員はパニックに襲われる。何日間も暴風が吹きすさび、海は荒れ狂い、「助かる望みは全く消えうせようとしていた」(20節)と書かれている。人々は絶望のあまり、食事も喉を通らない有様だった。船の転覆は時間の問題であり、乗員乗客は海の藻屑と消える運命にあった。
 しかし、この完全な絶望状態から乗員乗客は不思議にも助けられたということを使徒言行録27章は伝えるのである。これはまさに奇跡的だが奇跡物語ではない。キリストが現れて嵐を静めてくださったのでもない。では、何が起こったのかというと、この出来事の背後で、パウロを召してローマに送り込もうと計画なさった神が、生きて働いていてくださったということだ。そのことを確信するがゆえに、パウロだけは終始冷静なのである。彼は、祈りの中で「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」(24節)という神の声を聞いている。だから言うのである。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」(22節)。「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」(25~26節)。何か特別な奇跡が起こらなくても、神は確かに働いておられるのだ。だから、「元気を出しなさい。前途を悲観してはいけない」ということなのだ。
 私たちはこの物語から何を学ぶことができるだろうか。それは私たちを信仰に召して、使命を与えてくださった神は、私たちが御計画に仕えるために、終始一緒にいてその道を守り、助けを与えてくださるということではないだろうか。神は私たちと共にいて、ときに瓢箪から駒を出すようなことをなさり、ときに災い転じて福となすようなことをなさり、ときに絶体絶命の危機からも救ってくださるということだ。そのことを信じてよいと使徒言行録は伝えようとしていると思う。
 本日の話を見ても、パウロは激しい暴風による転覆の危機から救われただけではない。暗礁だらけの海域で船が座礁することから守られたし、最後には兵士に殺される危機からも逃れることができた。兵士たちは囚人がどさくさに紛れて脱走するのを恐れ、いっそ殺してしまおうとするが、間一髪百人隊長の説得で思いとどまるのである。このように、何一つ奇跡と言えることは起こらないが、すべての出来事の中に神は働いて、乗員乗客を無事上陸に導いておられるのである(44節)。
 私たちはこういうことが、我々の信仰生活や教会生活の中でも起こると期待してよいのではないだろうか。こういうことを信じないで、いつも前途を悲観し、「元気を失う」ことが一番いけないのではないだろうか。私たちは、すべての成り行きの中に、神の働き、キリストの臨在を覚えて、勇気をもつことが勧められていると思うのである。
 ただ、注意したいことは、信仰というのは我々の自己責任を決して排除するものではないということである。よく信仰をもつ人は、神様に頼ることで、人間の果たすべき責任から逃れようとしていると言われることがあるが、そんなことはないのである。パウロの姿を見るとそのことは分かる。嵐に遭遇する船の中で、乗員乗客の安全のために最も心を砕いたのは、神を信じない人ではなくて、神を信じるパウロであった。
 たとえば、一時停泊した港で、もうこれ以上の航海は危険だと警告したのは誰だったか。それはパウロであった(10節)。また、暗礁の多い海域で、船員たちが小舟をおろして逃げ出そうとしたとき、「あの人たちが船に留まっていなければ、あなたたちは助からない」(31節)と言って引き止めさせたのは誰であったか。それはパウロであった。またさらに、生き延びるためには食事をとらねば駄目だと言って、人々を励まして食べさせたのは誰であったか。それもパウロであった(33~36節)。神を信じるパウロこそ、懸命になって生き延びるための対策を講じたのである。神を信じるとは、なすべき当然の努力を怠ったり、ゆるがせにしたりすることではないのである。神様の救いの計画や摂理は、人間の責任ある行動も織り込みながら動いているのだ。
 だから、神様が味方だからといって、粗雑な計画を立てたり、無謀な行動をしたりということは謹まねばならない。また、神様は救ってくださるに決まっているからといって、怠慢な信仰生活を送ってもならないということだ。我々は、自分の身の安全と信仰の向上のために、最大限の努力と配慮をするように求められているのである。そういうことをおろそかにしにして救いがあるのではない。このことを間違えると、当然の報いを受けることになるであろう

最新の画像もっと見る

コメントを投稿