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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

空しい偶像を拝む民

2012-11-05 19:03:46 | 日曜日のメッセージ
 イザヤ書44章6~17節。ここに登場するのは、神の民イスラエルではない。人類一般の罪が明らかにされている。神に造られた人間は、まもなく自分を造った神に逆らうようになってしまった。このことは、すでに創世記が語っていた。アダムとエバの堕落、洪水物語、バベルの塔の出来事などがそれである。人類が増え広がるに従って、神に逆らう勢いは大きくなり、ついには自分を創造した神を忘れて歩む国民が生まれてくる。そういう国民もすぐれた文明を築いて、やがてイスラエルと対峙するようになるのである。エジプトとかペリシテ、アッシリアやバビロンといった古代オリエントの大国がそうであつた。彼らは神に創造された人間としては優れた能力を保持していたが、もはや創造者である神をあがめることをしない、生けるまことの神との交わりをもたない、偶像を拝む民であった。しかし、偶像に支えられた生き方に本当の安心はあるだろうか。偶像は我々に永遠の命を保証するだろうか。明らかにそうではない。心細いようだけれども、天地を創造された、目に見えない生けるまことの神に寄り頼めと旧約の預言者は言っている。そうするとき、我々は真の幸福に至る最善の近道を歩いているのである。目を覚まし、へりくだって、生けるまことの神をあがめ、その御心に従う生活をする。その時、本当の希望が見えてくると預言者は語っているのである。 . . . 本文を読む

大地の基を定められた

2012-11-05 18:49:58 | 日曜日のメッセージ
 箴言8章22~31節。環境破壊などの地球規模の深刻な現象は、現代の世界に対する警告となっています。しかし本日の箇所は根本的にはもっと明るい楽観的なことを教えている箇所ではないかと思います。この世界の創造が神様の知恵によって導かれたということは、この世界が確かな基礎の上に据えられて、安心して生きられる基本構造をもっているということです。本日の箇所を読みますと、神様の知恵に導かれて造られた世界は熟練した建築士が確かな技術をもって据え付けた世界という感じがするのです。「山々の基を据える」とか、「天をその位置に据える」とか、「原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにした」、「大地の基を定められた」、こういう表現を一つ一つ辿りますと、しっかりとした構造をもつ建造物のようなものを感じます。聖書の創造のメッセージは、この世界は基本的に安心して住んでよい世界なのだということではないでしょうか。 . . . 本文を読む

わたしたちの本国は天にある

2012-10-30 20:03:09 | 日曜日のメッセージ
 フィリピの信徒への手紙3章17~21節。我々はキリストがもたらしてくださる最終的な救いの完成、それを究極の最も価値ある希望として仰ぎ続けていきたい。確かに、神様はこの地上の生涯にもいろいろな祝福と恵みを用意してくださっている。そして、許される年月を我々は精一杯この世で生きなければならない。でも、それはあくまでも過渡的なものであって、そこに究極のものを見出そうとしてはならないし、安住してもならないのだ。この世の生活を喜び感謝しながらも、なおいっそう大なる栄光、もっと完全なものを将来に求めなければならないのである。それが、キリスト者の歩むべき道だとパウロは言いたいのである。そして、最後にその終局的希望がどういうものであるかを、パウロは述べている。それが、21節の「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」という言葉であった。(写真は、せきかわみずえ氏撮影) . . . 本文を読む

生きるにも死ぬにも

2012-10-30 18:54:22 | 日曜日のメッセージ
 フィリピの信徒への手紙1章12~30節。信仰生活には戦いが伴う。パウロが生き延びてフィリピの教会のために力になりたいと願ったのも、彼らが信仰の敵となる人々と戦っていたからであった。信仰生活というのも、苦労せずに筋書き通りに成長していくものではない。信仰のともしびを消そうとしたり、曲げようとする力とぶつかることある。あるいは、自分の油断や怠慢によって弱まってしまうということもある。そういう一つ一つのことに対処して、それらを克服していくことなしに信仰生活はあり得ない。パウロは、27節で「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と言っている。これは信仰の戦いを暗示している。また、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っている」とも言っている。これは、フィリピの人々が信仰の敵と戦いつつ、信仰の成長のために努力している姿をあらわしている。 . . . 本文を読む

天にある永遠の住み家

2012-10-30 18:40:09 | 日曜日のメッセージ
 コリントの信徒への手紙二 5章1~10節。本当にこの地上の人生には悲しみや痛みが多いと感ずることがある。我々は年を取ってくると故障が多くなる。パウロがここで言っているように、我々はまさに「この地上の幕屋にあって苦しみもだえて」いる(5・2)。また、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいて」いるとも言われている(5・4)。誰でも、年取ると体の中に死の予兆となるものをいくつか抱え込んでいる。それが日に日に力を増してくるのを感じているのではないだろうか。これは少々つらい現実である。しかしまた、誰もが通らねばならない現実と言える。しかし、その先に死の他なにもないということではないのだと、本日パウロは語っていると思う。その先にはよりよいものが待っている、体のよみがえり、永遠の命が待っている。この希望を明るくともして地上の生涯を歩んでいきたいと語っているのである。 . . . 本文を読む

神の道は究めがたい

2012-09-29 15:08:02 | 日曜日のメッセージ
 ローマの信徒への手紙11章25~36節。本日のローマの信徒への手紙で言われていることは、長年パウロの頭を悩ました問題、どうしてイスラエルがキリストを拒んでしまったのか、あるいはどうしてユダヤ人がキリストに躓いてしまったのかという問題である。これは、パウロの心を曇らせる重大関心事だった。しかし、神を仰いで信仰的に思索をめぐらせて行くうちに、しだいにパウロの心にも晴れ間が見えてくることになる。パウロの心に人知をはるかに超えた神の道が見え始めたのである。そして、明るい視野が開けてきたのである。 . . . 本文を読む

教会のために何を祈るか

2012-09-23 14:06:34 | 日曜日のメッセージ
 エフェソの信徒への手紙3章14~21節。教会は何を祈るべきなのだろうか。エフェソの信徒への手紙は根本的なものに気付き、本日の個所でそのことをひたすら祈り求めている。この一つのことがかなえられれば、あとのことは添えて与えられるからだ。エフェソ書は、本日のところでまず次のように祈っている。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて(くださるように)、(また)信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(3・16~17)。 . . . 本文を読む

この世に福音を証するために

2012-09-23 13:59:11 | 日曜日のメッセージ
 ペトロの手紙一 2章11~25節。ペトロの第一の手紙は上に立つ人々、皇帝や総督や奴隷の主人に服従するように求める。それは無用な緊張関係を避けて平和な信仰生活を保つためであったろう。ただ、ペトロの第一の手紙が上に立つ者への服従を呼びかけたのには、もう一つのわけがあった。それは、何かと言えば、ミッションすなわち伝道なのである。クリスチャンは救い主を証するためにこの世に遣わされているのであって、そういう者にふさわしい態度が求められているのである。この世に福音を証ししようとしている者が、この世と争いを起こしていては、やはりまいずいのである。 . . . 本文を読む

死に至る罪、死に至らない罪

2012-09-11 20:11:52 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネの手紙一 5章10~21節。「死に至る」というのは、肉体の死ということではなく、永遠の命から切り離されたという意味での死を指していることは言うまでもない。著者にとって、よほど腹に据えかねる人々がいたようである。こういう人々のためには、あえて神に願うようにとは言わないと勧告しているのだから、非常に厳しいと思う。この場合、「神に願う」というのは信仰復帰のためのとりなしの祈りを指していると考えられるが、そんな祈りをすることさえ神様の前に憚られるほどに、彼らは神と教会をけがし、許容される一線を越えていたということである。あれほどの祈りの確信を語った著者がそう言うのだから、これはよほどのことではないかと思う。ただ、「これについては、神に願うようにとは言いません」という表現には微妙なニュアンスがある。場合によっては祈ることもあり得ると言いたいのようにも聞こえる。祈ることを完全に打ち消しているのではないのである。 . . . 本文を読む

光に照らされる

2012-09-03 16:48:48 | 日曜日のメッセージ
 エフェソの信徒への手紙5章11~20節。昔のローマ人の諺に「夜は恥を知らない」という言葉があった。今日では夜でも至る所に照明がついているが、昔は本当に夜は暗かったのであろう。その暗闇が覆い尽くす夜、悪人は顔を見られないのをいいことに、したい放題の悪さを行うというのである。入信以前の人々の生活はそんな誘惑に満ち満ちていた。しかし、光に照らされた今は、光の子として、主に従う生き方を目指すものへと変られたのである。このことを心の銘記して生活するようエフェソ書は求めているのだ。 . . . 本文を読む