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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

神殿崩壊の予言

2011-01-29 19:06:20 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書21章1~9節。ここでイエスは驚くべきことを仰った。神殿崩壊の予言であった。爆弾宣言とでも言うべきものであった。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る』」(5~6節)と言われている。  ここで人々が見ている神殿とは、ヘロデ大王が修築造営したばかりの壮麗な建造物だった。紀元前20年にヘロデは神殿の改築を始め、痛んだ部分を修復し、また異邦人の庭という領域を新たに設けるという事業を成し遂げたのである。最終的完成までには46年かかったと言われている。ところが、その見事な建造物が「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と仰ったのだから、聞いた人々はびっくり仰天したにちがいない。 . . . 本文を読む

主の恵みの年を告げる

2011-01-22 18:55:51 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書4章14~30節。イエスの宣教活動は安息日の会堂というきわめて日常的な場面で行われた。本日の個所ではイザヤの巻物が読まれたと書いてある。ここに引用されているのは、イザヤ書61章の言葉である。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」 . . . 本文を読む

しかし、お言葉ですから

2011-01-15 20:34:29 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書5章1~11節。その日は全く駄目な日であった。シモン・ペトロは言った。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。ふつうの漁であれば、あきらめるべきであった。今日はやめて、また明日に賭けるのがふつうである。ところが、それにもかかわらず、イエスはその日「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と仰ったのである。福音宣教、伝道、教会形成というのは、うまくいかない時にこの声を聞けるかどうかにかかっている。また、イエスは我々のなにもかもうまくいかないときに、そう語っておいでになるということである。 . . . 本文を読む

イエスの歩み:洗礼による出発

2011-01-11 14:00:33 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書3章15~22節。本日のルカ福音書はイエスの洗礼の意味について詳しい説明はしないが、文章の構造を通して何かを暗示していると思う。ルカは3章21節で「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」と語っている。民衆の洗礼とイエスの洗礼が同一線上に並べられているのである。イエスはメシアだからといって、自分を特別な高みにおくことなく、洗礼を受ける民衆の列に連なり、彼らと一つになられたということを強調したいのである。イエスは民衆と一体になって救いへの道を歩み出すメシアだった。我々罪人と同じところまで下ってきて、救いの道を開くメシアであった。 . . . 本文を読む

しもべを安らかに去らせてくださいます

2010-12-31 16:54:01 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書2章21~40節。お正月に気分が一新するように、信仰も原点に戻って一新したいと思う。そして、神と人との唯一の仲保者イエス・キリストを持つことが人生の最大の宝であり、もっとも大切なことであるということを、新年の冒頭でともに告白したいと思う。  そのことを告白できるようになった人は黙っていることはできないだろう。シメオンが喜びにあふれて賛美を歌ったように、またアンナがうれしくなって「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」ように、私たちも周囲に向かって語らないではいられないと思う。誰でも自分が好きなこと、感動していること、うれしいことは語らずにいられない。信じていることはなおさらである。受けた恵みを賛美しないではいられない。周囲に語らないではいられない。それが我々の信仰なのではないだろうか。 . . . 本文を読む

イエス:ひれ伏し拝むに価する方

2010-12-25 13:20:33 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書2章1~12節 イエスがお生まれになったとき、イエスを拝みに真っ先にやってきたのは誰だったか。マタイによるとお膝元ユダヤの人たちではなく、遠く東の方から来た学者たちであった。そして、彼らは星に導かれて幼な子のいる場所にたどり着いたとき、幼な子を見て「ひれ伏して拝んだ」と書いてある。ひれ伏して拝むというのは、ふつうの挨拶ではない。神様に対して行う崇敬の行為だ。 . . . 本文を読む

イエスの母となったマリア

2010-12-20 20:00:40 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書1章26~38節。もしも、マリアが高貴な家の娘であったとしたら、キリスト教は高貴な人だけの宗教になっていたにちがいない。しかし、神様はひとりの貧しいおとめマリアを選ぶことによって、キリストが世界のあらゆる人の救い主であることを保証してくださったのである。それはこの世の底辺に生きる人々が取り残されるような救いではないということである。実際、初期のキリスト教はそういう人々が多い集団であった(Ⅰコリント1・26~29)。  キリスト教が特定の人々のものではなく、神を愛する万民の宗教となるために、神様はあえてナザレに住むふつうの娘マリアをお選びになった。マリアが救い主の母となったという事実は、すべての人を救いへと招く神からのしるしということができるのではないだろうか。 . . . 本文を読む

口が利けなくなったザカリア~沈黙の意味

2010-12-11 18:00:42 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書1章5~25節。ザカリアが口が利けなくされたのは、沈黙の中でひたすら神の喜ばしい知らせを受けとめるための準備だったのではないだろうか。そして、およそ十ヶ月の沈黙の期間を経て、ザカリアは喜ばしい知らせを受けとめることができるようになる。そのとき「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(1:64)と言われているのである。我々には黙ってただ神の言葉のみを心に響かせる時が必要なのである。 . . . 本文を読む

神の言葉への信頼

2010-12-05 18:01:42 | 日曜日のメッセージ
 イザヤ書55章1~11節。人間の信仰には弱さが付きまとう。信じて歩み始めた者も「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とお叱りを受ける時がある。神の導きに従って歩み出そうとするときに、決まって我々は不信仰の壁に突き当たる。イスラエルの民もそうであった。預言者が罪の赦しを説き、バビロン補囚からの解放を告げ、祖国への帰還を促しても、人々はまだためらっていた。成功する見込みがあるのだろうか。本当に大丈夫なのか。うまくいかないのではないかと。これに対する答えは、み言葉には約束を果たす確かな力があるというものだった。 . . . 本文を読む

目を覚ましていなさい

2010-11-27 13:53:50 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書21章25~36節。キリストの再臨は救いの完成をもたらすと同時に、裁きの座の前に立たされるときである。ふさわしい状態でそのときに備えることが必要なのである。信仰によって義とされた者が改めて裁かれねばならないというのは、聖書が明確に述べていることである(Ⅱコリント5:10)。もちろん、その人の行いしだいで救いか滅びかが決まるという意味ではない。救いに招かれた者にふさわしい信仰と生活が問われるという意味にほかならない。聖書によると、主の再臨の日は「罠」とか「盗人」にたとえられる。それらは予測不可能な点で共通している。いつ主がおいでになっても慌ていることのない姿勢でその日に備えたい。 . . . 本文を読む