ルカによる福音書3章15~22節。本日のルカ福音書はイエスの洗礼の意味について詳しい説明はしないが、文章の構造を通して何かを暗示していると思う。ルカは3章21節で「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」と語っている。民衆の洗礼とイエスの洗礼が同一線上に並べられているのである。イエスはメシアだからといって、自分を特別な高みにおくことなく、洗礼を受ける民衆の列に連なり、彼らと一つになられたということを強調したいのである。イエスは民衆と一体になって救いへの道を歩み出すメシアだった。我々罪人と同じところまで下ってきて、救いの道を開くメシアであった。
そして、イエスがヨハネから洗礼を受けて祈っていると、天が開け、聖霊がイエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてくる。まさにここに、イエスの生涯の節目がはっきり刻印されている。この後半の「わたしの心にかなうものである」というのは、「あなたをわたしは喜んだ」とも訳せる言葉で、イザヤ書42章1節「わたしの喜ぶわが選び人を見よ」に由来する。引照付きの聖書には必ずそこが引照されているはずだ。そしてさらに言うと、あのイザヤ42章の神の喜ぶ「僕」というのは、人々の罪を負って執り成しをするイザヤ53章の「主の僕」へとつながっていく。イエスというメシアもまさに我々の罪をその身に負うメシアだ。そういうメシアとして世にきたのだ。そういうメシアとしてこれからの生涯を歩むのだ。天からの声はそのことを告げる任職の言葉であった。
こう考えたときに、洗礼者ヨハネとイエスの間のギャップも埋められてくるのではないだろうか。ヨハネはイエスが厳しい裁きをなさらないのを見て、のちに戸惑いの色を見せるが、まだイエスのことがよく分かっていなかったのである。分かっていたら戸惑わなくて済んだにちがいない。ヨハネが見届けることができなかった十字架は、イエスが人々の罪の責任を引き受けるメシアであることを示す最後の証であった。
そういうメシアの働きを理解する鍵がすでにイエスの洗礼には秘められていたのである。そうでないと、ルカにある放蕩息子のたとえなどは、全く辻褄の合わない話になってしまう。人々の罪の責任を代わりに負うメシアがいなければ、あのような無条件の赦しを語るたとえ話は成立しないからである。福音書がイエスの洗礼を非常に重要な出来事と考えた所以がそこにある。
そして、イエスがヨハネから洗礼を受けて祈っていると、天が開け、聖霊がイエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてくる。まさにここに、イエスの生涯の節目がはっきり刻印されている。この後半の「わたしの心にかなうものである」というのは、「あなたをわたしは喜んだ」とも訳せる言葉で、イザヤ書42章1節「わたしの喜ぶわが選び人を見よ」に由来する。引照付きの聖書には必ずそこが引照されているはずだ。そしてさらに言うと、あのイザヤ42章の神の喜ぶ「僕」というのは、人々の罪を負って執り成しをするイザヤ53章の「主の僕」へとつながっていく。イエスというメシアもまさに我々の罪をその身に負うメシアだ。そういうメシアとして世にきたのだ。そういうメシアとしてこれからの生涯を歩むのだ。天からの声はそのことを告げる任職の言葉であった。
こう考えたときに、洗礼者ヨハネとイエスの間のギャップも埋められてくるのではないだろうか。ヨハネはイエスが厳しい裁きをなさらないのを見て、のちに戸惑いの色を見せるが、まだイエスのことがよく分かっていなかったのである。分かっていたら戸惑わなくて済んだにちがいない。ヨハネが見届けることができなかった十字架は、イエスが人々の罪の責任を引き受けるメシアであることを示す最後の証であった。
そういうメシアの働きを理解する鍵がすでにイエスの洗礼には秘められていたのである。そうでないと、ルカにある放蕩息子のたとえなどは、全く辻褄の合わない話になってしまう。人々の罪の責任を代わりに負うメシアがいなければ、あのような無条件の赦しを語るたとえ話は成立しないからである。福音書がイエスの洗礼を非常に重要な出来事と考えた所以がそこにある。
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