ルカによる福音書5章1~11節。その日は全く駄目な日であった。シモン・ペトロは言った。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。ふつうの漁であれば、あきらめるべきであった。今日はやめて、また明日に賭けるのがふつうである。ところが、それにもかかわらず、イエスはその日「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と仰ったのである。福音宣教、伝道、教会形成というのは、うまくいかない時にこの声を聞けるかどうかにかかっている。また、イエスは我々のなにもかもうまくいかないときに、そう語っておいでになるということである。
我々はこのイエスの言葉をどう受けとめるかを問われているような気がする。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。ペトロとしては、「いいえ、きょうはもう止めておきます」ということもできたはずである。「私は漁師です。毎日毎日、魚を採って暮らしているんです。そう言われても駄目なものは駄目なんです」と言えたはずである。漁師としての経験や勘をもってすれば、誰でもそう言いたかったと思う。
しかし、ペトロはここでは違う反応を示している。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。人間の経験や知識では無駄に見えても、イエスのお言葉なのでやってみましょうという態度だ。御言葉の宣教や教会形成というのは、人間の経験に基づいて結果を占うべきものではなくて、イエスの約束のゆえにやってみるものなのである。
ルカの書き方は興味深い。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」というところでは、主語は「わたしたち」だ。漁師の共通体験として、今日は駄目なのであきらめましたと言っている。しかし、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言うところの主語は、日本語には訳されていないが「わたし」である。「あなたの言葉に基づいて、わたしは網を降ろしてみましょう」と言っている。他のみんながどう考えようと、私は「お言葉」を信じてやってみます。一人一人がこの思いになった時、伝道は息を吹き返す。伝道とは、主の約束に答えて行う信仰の業なのである。時がよくても悪くても励まなくてはならない。そして、続けていくならば、そこには大きな結果が約束されているのである。事実、「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」とされている。
我々はこのイエスの言葉をどう受けとめるかを問われているような気がする。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。ペトロとしては、「いいえ、きょうはもう止めておきます」ということもできたはずである。「私は漁師です。毎日毎日、魚を採って暮らしているんです。そう言われても駄目なものは駄目なんです」と言えたはずである。漁師としての経験や勘をもってすれば、誰でもそう言いたかったと思う。
しかし、ペトロはここでは違う反応を示している。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。人間の経験や知識では無駄に見えても、イエスのお言葉なのでやってみましょうという態度だ。御言葉の宣教や教会形成というのは、人間の経験に基づいて結果を占うべきものではなくて、イエスの約束のゆえにやってみるものなのである。
ルカの書き方は興味深い。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」というところでは、主語は「わたしたち」だ。漁師の共通体験として、今日は駄目なのであきらめましたと言っている。しかし、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言うところの主語は、日本語には訳されていないが「わたし」である。「あなたの言葉に基づいて、わたしは網を降ろしてみましょう」と言っている。他のみんながどう考えようと、私は「お言葉」を信じてやってみます。一人一人がこの思いになった時、伝道は息を吹き返す。伝道とは、主の約束に答えて行う信仰の業なのである。時がよくても悪くても励まなくてはならない。そして、続けていくならば、そこには大きな結果が約束されているのである。事実、「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」とされている。