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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

王であるキリスト:自分を救わないメシア

2010-11-20 23:16:34 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書23章35~43節。十字架のイエスの両わきに二人の犯罪人がいた。その二人をクローズアップするのはルカだけの特色である。そして、この場面には他の福音書の同場面では見られない救い主イエスの心が示されている  まず、その犯罪人の一人は、先ほども見たように、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)とイエスを嘲る。彼はこの期に及んでもまだ自分の悪事を反省しておらず、やけになっている。これに対して、もう一人のほうは悔い改めており、彼がもう一人をたしなめる言葉の中に、この場面で最初の信仰告白が現れるのである。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)。 . . . 本文を読む

わたしは必ずあなたと共にいる

2010-11-13 15:31:20 | 日曜日のメッセージ
 出エジプト記3章1~15節。この箇所によると、神様の名前の意味は、「わたしはある」という点にある。「わたしはある」と言っても、ただ存在しているということを言っているのではない。静かに世界の外側にたたずんでいる神ということではない。この「わたしはある」は、12節の「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉によって解釈されなくてはならない。それは苦難のうちにある御自分の民と共にいるということであり、イスラエルがエジプトから脱出するその歩みの中で共にいますということであり、これからも御自分の民を導き続けるということである。「わたしはある」というのは、そういう生きて働く行動的な神を意味しているのだ。この点を見逃してはならない。 . . . 本文を読む

アブラハムもサラも笑った

2010-11-06 17:11:52 | 日曜日のメッセージ
 創世記18章1~16節。この箇所の最大の関心事は、人間の信仰の強さではない。アブラハムやサラの信仰をほめたたえることが関心事ではない。そうではなく、神様の計画は人間の信仰をはるかに越えて力強いということが言いたいのである。「主に不可能なことがあろうか」。この言葉を何よりも伝えたいのである。そして、神様とは信仰をもつ人間さえも笑わずにおれない不可能事を、実現に至らせる全能のお方なのだと教えている。このことを知らされて、おのれの不信仰を反省しつつ、一歩また一歩と深まっていくのが、現実の信仰なのではないだろうか。 . . . 本文を読む

ノアの洪水のメッセージ

2010-10-30 19:00:15 | 日曜日のメッセージ
 創世記9章8~17節。ノアの洪水の話から学ぶことは、人類の罪に対する神の取り扱いは裁きだけではなかったということである。洪水物語は最初から生き残るべき人々を確保していた。それが箱舟に乗り込んだノアの一族と一つがいずつの生き物である。洪水は人類に対する神の審判であったが、神はそれで世界を終わりにしようとはなさらなかった。洪水後の世界を見据えて行動を起こされたのである。ここに、一条の光が差し込んでいる。パウロの言う、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5章20節)という福音の前触れが垣間見られる。 . . . 本文を読む

創造者なる神

2010-10-23 11:11:24 | 日曜日のメッセージ
 ヨブ記38章1~18節。ヨブという人物はとてつもなく大きな苦難を味わった義人である。そして、なにゆえ神がこんな不幸をお許しになったのか、彼は問うている。この疑問をめぐって、三人の友人が登場し、次々にヨブを説得するという形で話が進んでいく。しかし、ヨブはいくら正論を言われても納得できない。紋切り型の答えに満足しない。しかし、ついに神から答えが与えられる時が来た。それが38章から41章までのところであり、神は嵐の中からヨブに語りかけられる。 . . . 本文を読む

最後の勝利を得る者

2010-10-15 17:14:24 | 日曜日のメッセージ
 ヨハネの黙示録7章1~12節。ヨハネ黙示録は人が神の御座の前に近づくことができるのは、人間の業績や努力の結果だとは考えていない。人は小羊キリストが流された贖いの血によって清くされるのであって、他のいかなる方法によっても神に近づくことはできないのである。最後の勝利を得た人々はどこから来たのかという問いに対して、ヨハネは7章14節で「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と答えている。決定的なことは小羊の血にあずかっているかどうかである。私たちは信仰者の地上の業績や活躍の如何で、その人の永遠の運命を推し量ってはならない。 . . . 本文を読む

火の中を自由に歩いているのが見える

2010-10-09 13:08:31 | 日曜日のメッセージ
 ダニエル書3章13~26節。我々はどんな最悪な時がきても、底なしの暗黒だけが待っていると考えてはならない。本日のダニエル書3章は王の命令に背いて偶像を拝まず、王の怒りを買って燃えさかる炉の中に投げ込まれた三人のユダヤ人の物話である。そこには不思議な光景があった。ネブカドネツァル王が炉の中を覗いていると、投げ込まれた三人の他に四人目がいて、神の子のような姿をしているのである。ネブカドネツァルはびっくり仰天する。この四人目はいつどのようにして炉の中に入ってきたのだろうか。これはこの物語にある一つの謎である。 . . . 本文を読む

みそば離れずおらせたまえ

2010-10-03 18:18:32 | 日曜日のメッセージ
 ヘブライ人への手紙6章4~12節。ヘブライ人への手紙をが取り組んでいる最大の課題は、恵みからの離反をいかに食い止めるかということだった。迫害の状況の中で、つらくても恵みから離れないでいよう。信仰生活を貫き通そうではないか。礼拝集会への参加を怠らず、いつも励まし合おうではないか。この手紙は随所でそういう実際的な勧めの言葉を語っている。しかし、しばしばその励ましは厳しい警告に変わることがある。 . . . 本文を読む

キリストの苦しみの欠けたところ?

2010-09-24 18:24:19 | 日曜日のメッセージ
 コロサイの信徒への手紙1章21~29節。  十字架を初めとするキリストの苦難は救いのために完全なものであった。ただ、もし何かが欠けているとしたら、それは何だろうか。それは世界中の人々にキリストの苦しみの効力を届ける労苦ではないだろうか。キリストは我々を救うために大きな苦しみを受けたが、それで事は終わったのではない。福音を伝える労苦を誰かが担うことが必要であり、今もキリストは福音宣教の戦いの中で我々と共に苦しみ続けているということであろう。福音が宣べ伝えられなければキリストの御業は完成しないのである。 . . . 本文を読む

多くの人の罪を負うために

2010-09-17 19:20:17 | 日曜日のメッセージ
 ヘブライ人への手紙9章23~28節。キリストの犠牲というのは、無頓着にならず、常に心を込めて黙想すべき重大な事柄である。ヘブライ書の研究で知られる川村輝典先生が、弦巻教会伝道開始四〇周年の記念でこの手紙の連続講解説教集を出しておられるが、この個所の説教のなかでキリストの犠牲の意味に触れて述べた言葉は注目に値する。「神にとってこれほど大きな屈辱はありません。神の愛は、その屈辱を乗り越えてあまりあるものです」(「見えないかたを見ているように」―へブル人への手紙 下―)と言っておられるのである。(写真はミシガン州ホーランドで見たキリスト者の墓地) . . . 本文を読む