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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

家を建てる者の捨てた石

2011-04-08 21:11:09 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書20章9~19節。イエスはぶどう園の主人の愛する息子を殺した農夫のたとえを語った。これを聞いてショックを受ける民衆に、「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」という意味深長なことをおっしゃった。これは新約聖書の中でたびたび引用される詩編である。キリストを指し示す詩編として重んじられたもので、詩編118・22の引用である。イエスも人々から捨てられても、価値なきものとされてしまうのではない。かえって、信じる者には永遠の救いの源となって重んじられることになる。 . . . 本文を読む

服は真っ白に輝いた

2011-04-08 20:56:32 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書9章28~36節。ペトロとその仲間の弟子たちはイエスの栄光を見ることを許されたが、栄光の体験を永続化することは許されなかった。モーセとエリヤとイエスのために仮小屋を三つ建てたいというペトロの願いはかなえられず、栄光の場面はそこで消えて、十字架へ向かうイエスだけがそこに立っておられた。このイエスはもう栄光に輝くイエスではなくて、苦難の道を行くイエスに戻っておられた。  この場面から学ぶことは、地上にあっては際限なく栄光の夢に酔いしれることは許されないということである。 . . . 本文を読む

日々、自分の十字架を背負って

2011-03-29 09:31:22 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書9章18~27節。イエスはペトロが正しい信仰告白をした直後、自らの受難を予告し、さらに弟子たちにも十字架を負って自分に従うよう命じられた。では、我々が負うべき十字架とはどんなことだろうか。ある時代には、クリスチャンが迫害されて、殉教者が出るということもあった。厳しい時代にはそういう十字架も予想されることであった。しかし、 . . . 本文を読む

神の指によって悪霊を追い出す

2011-03-20 16:56:18 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書11章14~26節。当時の人々は多くの病気が悪霊の仕業によって起こると考えていた。この箇所では、イエスは口の利けない人から悪霊を追い出し、物が言えるようになさったので、これを見た群衆は驚嘆したと言われている。  では、この悪霊追放の業が何を意味しているのか、そのことを説明するのが20節以下の所である。こう書いてある。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。 . . . 本文を読む

イエスを襲った誘惑

2011-03-14 15:12:59 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書4章1~13節。日本語では、誘惑という言葉と試練という言葉を使い分けるが、この二つは聖書のギリシア語では同じであって、ペイラスモスという言葉である。ということは、つまり、ある同じ一つの出来事が、誘惑となることもあるし、試練となることもあるということだ。無警戒な態度で関われば、それは我々を堕落させる誘惑になりかねないが、神への信頼と祈りをもって対処すれば、それは我々の信仰の質を高めるよい試練の時となるということである。  本日の荒れ野の誘惑でイエスは我々に一つのよい模範を示しておられる。 . . . 本文を読む

五千人に食べ物を与える

2011-03-04 21:26:52 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書9章10~17節。思えば、パンの奇跡を行ったのは、イエスが初めてではない。旧約聖書を知る人々なら、瞬間的にいくつかのことを思い出すはずである。旧約聖書において、神が奇跡的な仕方でイスラエルに食物を与えられるということが、何回かあった。それはいずれも、イスラエルの非常な危機の時代においてである。・・・こうした聖書の背景の中でパンの奇跡を考えると、いかにこれが重要な意味をもっていたか想像できると思う。現代人の目からみると、これは荒唐無稽な話に聞こえるかもしれないが、聖書の世界に生きた人々にとってこれはわくわくするような、重要なメッセージを含む話であった。 . . . 本文を読む

手を差し伸べてその人に触れ

2011-02-25 19:04:58 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書5章12~16節。重い皮膚病の人といえば、もう誰からも見捨てられた存在であった(レビ記13章)。当時の社会では、最も忌まわしいとされた存在である。だから、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というこのところには、自分のような汚れた重い皮膚病の者にも、あなたは救いの意志をあらわしてくださいますか、という切実な思いが込められていた。  そして、これに対するイエスの返事は.... . . . 本文を読む

良い地に落ちて実を結ぶ

2011-02-22 20:05:55 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書8章4~15節。本日の個所はイエスのたとえの中でも、最初の三つの福音書に共通して出てくるたとえで、種蒔く人のたとえとして知られている。  「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」  何の脈絡もなしに、いきなり、これだけを聞いてもイエスが何を言いたかったのか分からないと思う。だから、... . . . 本文を読む

安息日の回復

2011-02-16 23:34:50 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書6章1~11節。本日の箇所にはファリサイ派の人々に対するイエスの挑戦が描かれている。まず第一の話は、イエスが弟子たちに麦の穂を摘んで食べることを許したという話である。これはそれ自体は問題のないことである。貧しい人が麦畑のいちばん縁にある穂を摘んで食べることは、旧約聖書の人道的律法によって認められていた(レビ23:22)。しかし、問題は安息日にそれをすることにあった。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた」とあるが、「穂を摘む」ことは刈り入れ労働であり、「手でもむ」ことは脱穀作業と見なされた。安息日にはそんなささいなことも労働と見なされて禁じられたのである。  案の定、ファリサイ派の人がこれを見て抗議の声をあげている。安息日にしてはならないことをしているというのだ。しかし、・・・ . . . 本文を読む

新しい革袋に入れなければ

2011-02-04 20:39:45 | 日曜日のメッセージ
 ルカによる福音書5章33~39節。ここで語られていることは、イエスのもたらしたものが、この世の如何なる物差しによっても測れない、完全に新しいものだということではないだろうか。だから、断食に代表されるような古い価値観、古い生活習慣にしがみつく人は、イエスに戸惑うほかはないと言っているのである。そして、そのことを示すために語られたのが、継ぎ当てのたとえと革袋のたとえであった。いずれのたとえも、新しいものは古いものとは適合しないということを言おうとしている。 . . . 本文を読む